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ボイスと李禹煥、そして情報の解放について喋ってみた。


音声ブログの第4回。前回のテレビとインターネットの続きで、今回は二人のアーティストから始めています。李禹煥ともの派、そしてヨーゼフ・ボイスと社会彫刻。デュシャンが物体を、フルクサスが情報を作品にしたとして、その次に来たのは何だったのか。後半は1991年に飛んで、湾岸戦争の報道規制と、同じ年に公開されたワールド・ワイド・ウェブ、そこから生まれたハッカー文化とサイファーパンク、テッド・ネルソンのザナドゥまで。約58分の独り言です。インターネットが表現をどう変えたかという本題には辿り着いていません。そこは次回に。

以下は録音の内容をAIにまとめてもらったものです。話した順に並べています。

しゃべったことの全文

whisper.cppで文字起こしし、固有名詞の取り違えをAIで補正したあと、外れているところを手で当て直しています。言い直しや言い淀みはそのまま残しています。一箇所だけ補足すると、ハッカーの話に出てくる「ジッピー」は、補正が「イッピー」に直そうとしたところを、喋ったとおりに戻しています。年代のずれについては下の訂正で触れています。

また、性懲りもなく、独り言を始めちゃおうかなと思いますね。なんか思いだったんで、前回からは2週間ぐらい経ってるんですけど、基本的にずっとぼーっとして過ごしてたんですけど、たまに突発的に何かをやろうかなというタイミングがあるんですよね。無駄話でまして、こいつ何やってんだろうなと思いながら聴いてもらえたら幸いです。で、前回なんですけど、前回テレビが普及して、テレビっていうメディア自体が表現行為自体を行動とか現実とかフレームとか枠がない。で、美術館とかのもので、衝動されないような作品、ハプニングとか、パフォーマンスアートとか、そういったものがフルクサスを中心に生まれてきたっていうような語りをした後、

テレビっていう情報技術から、だんだんとインターネットに変化していって、テレビっていう受信一辺倒のものから、インターネットっていう方向、受信じゃなくて発信もできるメディアがどんどん普及していく時代になっていくんですけど、iPhoneじゃないや、インターネットが接続したのは1969年なんですけど、実際、WWWのワールド・ワイド・ウェブが公開されて、今で言うそのウェブの姿になったのは1991年か。だから、この間に70年、80年代ぐらいですかね、この辺のことをちょっと話しながら、なんとかインターネット辺りまで辿り着けたらなって今日は思うんですけど、1970年代ぐらい、フルクサスはずっと続いてるんですけど、

そのメンバーの中にナムジュンパイクがいて、ナムジュンパイクが前回喋ったんですけど、個人的にキーマンだと思うアーティスト、2人いて、1人はフルクサスにも参加していたヨーゼフ・ボイスと、あともう1つは、ナムジュンパイクは韓国系で、日本にも神秘なアーティストなんですけど、同じように李禹煥っていう韓国の方で、またさらに日本でもしっかり活動されてて、すごい面白いアーティストの方がいるんで、この2人軸にしてちょっと話したいなと思っていますね。まずは、誰からいこうかな?どっちからいこうかな?李禹煥かな?ボイスの方は結構好きだからすごい語っちゃいそうだから、李禹煥のもの派について話そうかな。

李禹煥のもの派も結構好きなんですけど、李禹煥か、もの派。結構この時代の日本は高度経済成長期入ってるんで、めちゃくちゃ文化的にも恵まれてるんですよね。ていうか、戦後アメリカの敗戦国になってるからなのか、コッコが本当に神秘というか、要は参加に入ってるんで日本って、結構人の交流っていうのが文化の中心地であるアメリカと、結構近い距離にあったんじゃないかなと思うんですよね。だから、フルクサスとかは全然日本人たくさんいるし、一柳慧とか、オノ・ヨーコとか、他にも小杉武久さんみたいな前衛音楽やってる人とか、いろんな人いってますね。これはみんな大学生で留学生として行ってるんですよね。

アカデミックな本当に音大生の人たちとか、技術とか美大みたいな人たちが、最センターの後まのぶためにニューヨークに行ってて、日本は高度経済成長期で、これから80年代にはバブルが花開くんで、少しなんか日本もニューヨークの文化みたいなのって、ちょっと遅れて日本にも来てるし、ニューヨークだいたい1960年代くらいからアンディ・ウォーホルとかがすごい活躍し始めて、例えばなんですけど、アンディ・ウォーホルがポップアートで賞して、看板とか商品のパッケージみたいなのもアートに変えて、また、そのシルクスクリーンっていうような新しい技法とかもバンバン使って、複製技術、作品を複製していくこともどんどん商業化していくし、

あとはポップアートっていう商業的なもの自体をもうアートだとするっていうのがどんどん一般化してきますね。この商業的なものをアートにっていう文脈はよく思うんですけど、本当に2000年代以降村上隆とかルイ・ヴィトンとかとコラボしたりしますけど、個人的にはアンディ・ウォーホルとかのポップアートと同じ文脈にあるんじゃないのかなって思っておりますね。で、アンディ・ウォーホルとかやったことで「あ、いいな」って思ったりとかするのは、「あ、俺リューファの話じゃなくてアンディ・ウォーホルの話始めちゃってるわ」「まあいいか」アンディ・ウォーホルってファクトリーっていうアンディ・ウォーホルってニューヨークでいつもパーティーしてたんですけど、

そのパーティーで人がわさわさ文化人たちが集うわけですよ、ようなようなニューヨークに。で、人と人とがつながって、そこからまたなんか新しい作品が生まれたりとか、コミュニティみたいなものの中心にもいるんですよね、華やかなセレブリティ文化っていうか、アンディ・ウォーホルは。で、その中から広告会社みたいなところとタッグを組んで、アーティストっていうのが商業的なフィールドで活躍し始めるんですよね。で、このやっぱりこのアンディ・ウォーホルがファクトリーって言ったのが結構おつで。アンディ・ウォーホルはそういう文化自体を商業的な軌道に乗っけて、その中心地になるのはもうファクトリーっていう、

自分たちは工場のように作品を産んでいくという意志表明なのか、そういうネーミングなのですよね。で、ニューヨークで集まってみんなでパーティーとかしてたんですよね、ディスコとか聞きながら。なんかそういうアーティストコミュニティと商業的な世界との境界みたいなのがどんどん混ざり合っていきますよね。で、やっぱりこれがこれのやっぱりあり方っていうのが80年代の日本の電通カルチャーですよね。それはやっぱり影響があったと思いますよ。坂本龍一とかが、世界的にも有名だったけど、日本のもちろん地位を築いていて、そういうアーティストのコミュニティとかセレブリティみたいな。なんかもう電通の人たちは24時間働けますかみたいなのに、昼働いて、夜はパーティーって、顔広げてジュリアナ東京で踊ってみたいな。

そんな時代が、まあこれ偏見かもしれないですけど、ジュリアナ東京で踊ってとか、なんかそういうお金使って大派的なことをやってるっていうのはまあ偏見かもしれないですけど、そういったバブルでのそういうセレブリティ文化みたいなのも、なんかこの辺から出てきてるんじゃないのかなって思ったようにしますよね。そういうのを結構やったのが80年代なんか電通なんじゃないのかなと思ってたりとか、博報堂とかもそうですし、あとは日本の西武ですね。デパートの西武なんですけど、パルコもあったりとか、あとは無印良品ですね。これも大きいですね。無印良品とかが80年代できて、糸井重里とかコピーライターっていうことで、なんか人が作る憧れの職業もコピーライターになるっていうような、憧れの職業になってますよね。

80年代とか、大量消費の時代の花型の職業ですけど、今考えたらマジコピーライターって何ってなりますよね。商品の文句を考える人なんですけど、それが職業として認知されてましたからね。80年代、90年代。今もコピーライターとかって、ジャンルとしてはあるけど、職業として成立するほど勢いはないよな。糸井重里といるけど、手帳とか作ってるし、コピーライターは歌ってないからな。そんな日本高度経済成長期80年代ぐらいに花開くんですけど、この時代はすごい海外からアーティストも着てたりとか、お金があった時代っていうのもあるから、芸術家とかもばんばん生まれてたんじゃないのかなっていう、

そういう背景も感じますよね。多分、国が豊かになると、アートとかもやっぱり豊かになるんですよね。美術フェスティバルみたいなものとかって、基本的に企業とかで成り立ってましたからね、この時代。寄付とか募って、何か色々できて、企業自体が芸術に取り込むこと自体が、企業ブランドを作るために必要なものみたいな感じのところもあったもんな。昔はね、昔、本当にあの美術関係者っていうかキュレーターみたいな人と昔話した時に、昔は本当に寄付が集まったって言ってたからな、そんな豊かな時代、そんな日本を遡ると70年代ぐらいに李禹煥って人はいるんですよね。他にも具体とか、そういう日本だけの芸術運動みたいなものがポツポツ起こってて、この辺はなんかそこまで自分で勉強してないんですけど、すごいなんだろうな。

日本がそういうヨーロッパからニューヨークに移った近代芸術みたいなのを輸入して、日本らしいというか、自分たちなりに装着した作品っていうものが出てきた時だったんじゃないのかなと思ったりもするんですよね。この60、70、80年代日本っていうのは世界的にもなんか恵まれてたんじゃないのかなって思う、だってここまでその文化の中心に少なくともアジアでは一番日本が近づいてましたからね。そしてそんな中にナムジュンパイクもいるし、李禹煥もいるんですけど、不思議というか何なのか、李禹煥もパイクも韓国人ですけどね。韓国人で日本にやってきてっていう人が多いんですけど、ただ一応日本文化ということで話をさせてもらおうかな。

李禹煥自体ってその日本文化を縦に何かを語るような人ではないんですけどね。李禹煥たちの作品に関しては、パイクみたいにメディアートとかにもいかなかったし、ハプニングみたいな、そういう行動とか形のないものを作品にもしなかったんで。李禹煥とかの作品っていうのは、なんか見たら分かると思うんですけど、本当にただの石とか、何の作品もない鉄板とか、角材とか、シンプルな幾何学的なものとかを併置して並べておいて、いたりとか、すごくシンプルで作為的なものが実は全然ないっていうのが結構李禹煥とかもの派の人たちの特徴なのかなっていうのがあるんですよね。本当に角材を置いてるだけとか、石を置いてるだけとか、それをちょっと何ていうのかな。

モノとモノ自体の、モノとモノの併置でモノの中身とか事象の中身みたいなのを喚起させるような、なんかそういうちょっとレイディメイドっぽい手法は残ってるんですけど、一番というか、結構特徴としては本当に何も足さないし、何も引かないみたいな、もしかしたら何もしないことが作品の疑問にもなってたりとかっていうのもあると思いますね。あと、特徴としては、やっぱり自然物と幾何学的、工業製品みたいな角材とか鉄道の枕木とか、そういう工業製品みたいなのを並べておくんですよね。だから、もの派の傾向としては、李禹煥の本とかで書いてたりして、よく覚えてるのが自然との結婚って言ってるんですけど、

結構、シュルレアリスムとか、近代芸術って、モノの中にする、内在する意味とか、それ世界みたいなのは見出して語るんですけど、実際に、自然とか、世界自体がはすごく牧歌的だし、例えば、シュルレアリスムの矛盾とかたくさん対応してますけど、まあ、なんら現実にこうしてない、どっちかつと幻想文学みたいなフィクションなんですよね。だから、シュルレアリスムとか、近代芸術がガンガン流行った後、それこそ本質回帰じゃないですけど、みんなやってることがめちゃくちゃだったから、逆にそういう古代っていう本質に回帰するみたいな、そんなムーブメントもありますよね。だから、ピカソとかも結局シュルレアリスムっぽい絵とかじゃなくて、

ハトとか、牧歌的な子供みたいな絵描いたり、さらに絵描いたりとか、そういう時期ってありますね。みんな結構、シュルレアリスムとかの近代芸術とか、それこそフルクサスとかもめちゃくちゃやりすぎてて、こいつら何なんだみたいな悪評とかも飛んでたんですよね。そんな中、その李禹煥は普遍性みたいなものを自然を通して語りたかったのか、そんなつもりはなかったのかどうか分からないんですけど、作品の中でその自然っていうものを取り込んだんですよね。これがやっぱり大きかったんじゃないですかね。だからなんか自然との結婚みたいなことを結構本で語ってたりとかしてて、エッセンスとして自然を入れてるんですよね。

李禹煥、だからなんか自然と絵の具が垂れてきたような絵描いたりとか、シミみたいな絵とかね、そういうものも描いていたりしますね。そんなモノ派の李禹煥、他にもたくさんアーティストいるんですけど、キーワードとして僕がいたいのは、作品の中にフルクサスから一歩進めて自然との出会い、世界との出会いみたいなものをきちんと語ってる李禹煥。そしてもう一人、ヨーゼフ・ボイスってフルクサスのメンバーの中からいるんですけど、この人は自然を取り込んだんじゃなくて、もう社会全体が彫刻なんだって言った人なんですよね。ヨーゼフ・ボイスは。だからボイスとかは社会自体が彫刻だから、もうみんな誰しもが彫刻かなんだよみたいなことをヨーゼフ・ボイスとか言ってて。

ボイスとかの作品は初め結構レディメイドみたいな、この人戦争を言っててフェルトとかで怪我した時にくるまれたかなんかで、フェルトがすごい作品に出てくるんですけど、フェルトとやっぱり近代社会の嫌なものの体積の象徴として、なんか脂肪、ラードかな、ラードかなんかすごい素材に使うんですけど。まあなんかちょっとレディメイドじゃないですけど、そういうものを作ってたんですけど、どんどんその自分の作った作品の中でなんかもがいてたりとか、そういうパフォーマンスアートみたいなこともどんどんしてくるんですよね、ボイスに関しては。あの作品の中に自分っていうものがどんどん入り込んでくるんですよ、ボイス。

それはめっちゃ面白いなと思いましたね。パイクとはまた違う流れだなと思いながら。なあら、さっきそのシュルレアリスムってそういうバラバラになってて普遍性がなくてめちゃくちゃでみたいなこと言ってたけど、そういう軸がない軸みたいなのがあったんですよね。その時にやっぱボイスはもう自分自身が作品の中に入っていき、最終的にはもう社会全体がもう彫刻として作品なんだよって言い出すんですよね、ボイスは。で、誰しもが技術家で誰しもが才能があって、社会そのものがもう彫刻なんだっていうようなこと言ってて、ボイスはだから、社会をちゃんと変えようみたいな行動を取り始めるんですよね。だからヨーロッパはドイツ人なんですけど、だから7000本の樫の木を植樹したりとか、

この時環境問題もね、問題になってきてる時代ですから、食事したりとか、緑の党っていう政党を作ったりもしてって、政治家になって普通に選挙とかも立候補してるんですよね、ヨーゼフボイスは。そこも面白いなって思うし、実際政党を作って緑の党っていうと、今もドイツで普通に機能しててありますからね。でも、ボイス自体は当選してそれから追い出されるんですけど、作ったのに追い出されるっていうスティーブ・ジョブズみたいなことも待ってるんですけど、そんな政党を作ったりとか、ボイス学校も作ってるんですね。本当にワークショップみたいな、アートのワークショップみたいな走りで、誰でも参加方のもんみたいなやったりとか。

あと普通に政党さんに重要なアーティストとかもいるんですよ。なんかリヒターってすごい現代美術ってなんかすごい有名しているけど、リヒターとか、そういうドイツのアートシーンにおいてはもうキーマン中のキーマンなんじゃないですかね。ただ、このヨーゼフボイスっていうのも社会彫刻。そしてその誰もが芸術家であるっていうこの概念自体が今のインターネットの時代にハマってるなと思いますよね。誰しもが発信者になって、誰しもが表現者だよっていう時代なので、すごく予見性のあることをしてたなって思いますね。ヨーゼフボイス、この人ももうレジェンドとして日本にも何回か来てたりとかしている人ですね。

これがやっぱりそのフルクサスがあって、そこからまた段階的に進んでいった表現なんじゃないのかなと思いますよね。李禹煥は自然っていうのを取り込んで、意図的に何も作らなかったりとかして。ちなみになんか李禹煥について補足して思うことなんですけど、なんでその李禹煥の作品自然を取り込んで工業物みたいなのもただありのままに置いて、ただ作品ですみたいなことをやって、日本的だみたいな評価とかももらっているんですよね、李禹煥は。実際にその日本的なことを我々は当然のようにやっていることですみたいな発言も雑誌の中でちょこっとあったりとかして気になってるんですけど、どういうところが日本的なのかっていうと、

お庭とかで例えて言うと、結構日本庭園とかって何もしてないんですよね。日本庭園って、人が何かを表現しようとしているんじゃなくて、あれって庭園の作者が自然のミニチュアを作っているだけなので、人が自然を作ってるっていうような、だから何もしてないよ僕たちは。ただ自然のミニチュアを作っているだけですっていう、そういう日本庭園みたいな感覚がありますよね。ただそういう日本庭園って、結果的にその前とかが生まれて、その後江戸時代の平和な時代を経て、そういう日本庭園のあり方みたいなのが出てきてくるんですけど、普通に平安時代とかは中国式の庭園なんで、別に日本庭園とかでは全くないです。

やっぱり江戸期の平和な時代の日本庭園とかは、そういう自然のミニチュア池があって、その池に築山って山を築いて、その山から水が流れ込んできて、で、その植えている木も春の景色、秋の景色みたいな、その式を意識しながら木を植えていくっていう自然のミニチュアを作っていくっていう、それが日本庭園だなって個人的には思っているんですけど、その李禹煥とかそのもの派が、自然はそのまま使ってますけど、工業製品とかもそのまま何気なく、何気なくというか、むしろ意図的に幾何学的な置き方とかしてるんですけど、僕の実感で言うと、工業製品も自然の一部として、当然のように何気なく自然物と併置するこの手法みたいなのが面白いところなんじゃないのかなっていう、

個人的には思いますね、そういう工業製品自体も自然物として見るような視点ですよね。そういう物があったんじゃないのかなって個人的には思っていますね。で、ボイスが、ボイスはもう社会自体を彫刻だって言って、要はその話をまた戻そう。語りたいのは、フルクサスから一歩進めてレディメイドに、パフォーマンスアートみたいなフルクサスを起こって、李禹煥は自然というものを取り込み、ボイスはもう社会全体、全てが彫刻だって言ったんですよね。この李禹煥とボイスの記憶って、やっぱり似てて、要はもう世界全体が作品なんだよっていうような解釈。もう社会を丸ごと全てが作品なんだよっていうような表現なんじゃないのかなと。

勝手に私がまとめて言っております。そんなところから、インターネットの時代に話を移したいんですけど、そうですね、今30分くらい話したのかな。もうちょっと歩いちゃおうかな。インターネット出てくるんですけど、70年代もの派とかフルクサスの余派を感じつつ、80年代は日本でいうと電通みたいなところがウハウハやって、バブルの時代ですよね。高度経済成長期を迎えて、からの1991年に湾岸戦争が起こるんですね。これが結構なんていうか、象徴的というか、前回のベトナム戦争1965年に起こったベトナム戦争と大きく違うところがあって、これもやっぱり情報技術の変化が大きく寄与しているんですよね。

インターネットの起源自体は1969年ぐらいにできているらしいんですけど、元々はその電話回線使って大学間かな、なんかそういう学術的な情報のやりとりみたいなところから始まってるんですけど、この湾岸戦争の時はインターネットとあとGPSとかも開発されてるんで、GPSで位置を照準してそこに爆弾を落とすみたいなそういうことが起こってますよね。技術的にも大きいんですけど、この時はベトナム戦争の時は戦争の映像、リアルタイムにお茶の間に流しまくって反戦運動とかめちゃくちゃされたんですけど、この湾岸戦争に関しては報道規制をめちゃくちゃしまくってるんですよね。まあ中継とかしてるんですけど、人を殺すシーンとかは全然写さないんですよ。ミサイルに照準を当てている映像とか、

こういう部分が映すけど、人が実際に死んでいるところとか、悲惨なところは全く報道規制をして映さなかったらしいんですよね。これはもうメディアをコントロールするっていうことが完璧に起こってて、国が人々を完全に意識の操作みたいなのをしてますよね。だから反戦運動とかにもつながってはないんですよね。この湾岸戦争。ちなみにその湾岸戦争自体は深く、僕も知らないですけど、石油とドルの問題でしょうね。中東の方でガチャガチャして湾岸戦争を起こりました。そういう情報規制するオールドメディアみたいな体制がすごく浮きぼりになってくるんですよね。テレビって、双方向じゃないのに受信するものなので、発信者がいかようにも現実をねじ曲げるみたいな情報を持っている人たちがそれをうまく都合よく開示しないみたいな。

そういういかがわしくも思えるようなムーブっていうのがどんどん出てくるし、なおかつこの湾岸戦争1991年ぐらいにインターネット公開されるんで、そういう戦争において悲惨なところは報道されないっていうガチガチのその情報統制がされているところで、片やもう一方、1991年にワールドワイドウェブが公開されていますね。インターネットは本当に全くの真逆で個人が自分たちの情報を発信できるっていうような機能を持っているんで、これはもう本当にマスメディアのカウンターだったんですよね。だからそのマスメディアのアンチとしてもう機能しますよね。インターネットは。そしてそれはもうっと振り返ると、例えばその活版印刷が生まれたときに、その宗教改革が起こったような、そういう社会変革に情報技術っていうのは気をしてるんじゃないのかなっていうのが、

もう僕のなんていうか、こうやってうだうだ喋ってることの根幹にはあります。だから、マスメディアからのカウンターとしてのインターネットっていうのは、この湾岸戦争と WWWの公開のときに起きてますよね。WWW自体は、ヨーロッパのティム・バーナーズ=リーって、ヨーシとか研究してるCERNなんていうのかかんないけど、セルンわからないな。そこで使われてた社内システムなんですけど、それが世界に公開されて使用されることになりますよね。 World Wide Webっていうアドレスっていうものを作ってweb上に公開したら誰でもアクセスできるっていうインターネットが生まれてきますね。

WW Web、僕はこのWW Webを作ったティム・バーナーズ=リーさんの本も読んだんですけど、すごく家族とか大切にする好感の持てる本でしたね。昔のなんかすごい感じのいい人だなって思ったのを覚えてますね。これ作ったティム・バーナーズ=リーさんは、割とコンピューターの思想の王道を言ってるというか、インターネットとかワールド・ワイド・ウェブは人の思考を拡張するものなんだよっていう。これ結構ホール・アース・カタログの編集者の人とか言ってたりとか、思考の拡張って言われること多いですよね。インターネットは、技術っていうものがあって、例えば手を拡張させたものがナイフとか石とか、

そういう技術って、人間本来の力をさらにそれをパワーアップして拡張させてくれるから。別にインターネットをテクノロジーの系譜の最近の模式するなら、やっぱりナイフとか鉄器とか、そういうものも別にテクノロジーのプリミティブな形としてあって、それは手の拡張なんですよね、ナイフとか鉄器とかなんか。手の拡張じゃなくて、インターネットっていうのは思考を拡張するものだということは言ってますね。この辺の定義はAIとかにもきっちりまだ当てはまるものではありますよね。AIが何を拡張させるのかはちょっとまだ定義できないですけど、インターネットっていうのは思考っていうものを拡張するものなんだよって結構、

このワールド・ワイド・ウェブ作ったティム・バーナーズ=リーさんが解いてたのよく覚えてますね。で、今時にやっぱハッカー文化っていうのがすごい盛り上がってくるんですよ。このハッカー達の話、何かな。前回、グレイトフル・デッドのメンバーがハッカーの不当逮捕を訴える団体の理事かなんかしてるみたいなこと言ったんですけど、本当はこのKFですね、ヒッピーじゃなくてジッピー、ヤッピーみたいな動きをするらしいんですけど、ジッピーとかヤッピーがハッカーになるわけですよ。ハッカー達が何したかっていうと、こういった政府とかマスメディアとかそういう中央集権的な力がどんどん強まってくるというか、

情報を都合よく隠したりとかするから、こういう湾岸戦争の時みたいにね。そういうのをハッカー達が国家機密に入り込んで漏洩とかさせるんですよね。だから、何だっけな。有名な事件出てこないな。なんか、有名な事件、ちょっとよく調べよう。この当時、これはでも結構新しいな。ハッカーがやったことで、大きい事件。やべぇ、なんか言えねえわ。でもなんか普通に、国防総省とかに入って、ハッカー達がどんどん軍事的な機密を漏らしたりとか、そういういたずらを仕掛けるんですよね。でもこれはやっぱり、情報を解放する戦いだったんじゃないのかなって思ったりもしますね。で、俺のこのハッカー達のカルチャーで好きなのが、

1996年にサイバースペース独立宣言というのをやってるんですよね。ジョン・ペリー・バーロウさんという人らしいんですけど、これをインターネットは政府から独立しないといけない。こんなそういう中央政府に情報を握られていいようにされたくないっていうね。あ、そうですよね。これグレートフルデッドの作詞家ですね。作詞家の人が、世界経済フォーラムのダボス会議やってるダボスですね。サイバースペース独立宣言というのをやるんですけど、これはもう完全に、国家というサイバースペースを国家という枠組みから独立させてくれみたいなことをアメリカの西海岸で声を上げるんですよね。インターネットってやっぱりその60年代のカウンターカルチャーとか、ヒッピーそうのもとに成り立ってるんですよ。

この辺はね、いいんですよね。またこの会話の人たちね、ビットコイン作りますからね。サトシ・ナカモトっていう匿名の人なんですけど、匿名ってところがまたかっこいいんですけど、こういうサイファーパンクってハッカーたちが戦ってる中で、このハッカーたちをドキドキワクワクさせる暗号通貨っていう仕組みをサトシ・ナカモトっていう名前しか明かしてない謎の日本人、まあ日本人なのかどうかもわからないですけど、ビットコインできますね。ビットコインとかはね面白いんですけどね。まあこの時やっぱりその情報がテレビによって、マスメディアによって、メディアによって中央集権的になってるんですけど、

それがやっぱりね気に食わない人たちっていうのはいるんですよね。僕も気に食わないんですけど、まあこれはもうなんかメディアというものがそもそもファシズムと結びついてるっていうラジオがそのナチスドイツに使われてたのと一緒ね。大衆向けの影響力があるメディアって、本当に民主主義と相性良いんですよね。民主主義自体がその情報革命が作ったんじゃないかっていう一説も今俺が勝手に言いたいぐらいなんですけど、フランス革命とかも新聞とか散らしとかないと人を扇動できないんで、やっぱりそういう背景ってあったと思いますよ。民主主義が本とか読むようになって知識つけて、デモクラシーみたいな。

はい、フランス革命みたいな。まあ今ちょっと勝手に言っちゃってますけど、そういう情報の解放っていうのはね、社会を変えてきたんですけど、片やこうやって湾岸戦争の時みたいに情報をしっかりと隠して、人をコントロールするっていうメディアの悪いところみたいなのもたくさん出てくれるんですよね。そういうのに反旗を翻したインターネットによって反旗を翻したサイバースペース独立宣言。なんか、なんか言ってみようかな。サイバースペース独立宣言何言ってたわ。今ちょっと探してるんですけどなんか出てこないな。サイバースペース重要な箇所というかなんか言いたいけどちょっと読んでもなんか難しいな。

これはまあちょっと調べてください興味ある人ね。このサイバースペース独立宣言とか言っちゃうこのハッカーたちのカルチャーを生まれてきますよね。この人たちはあらがってますね、かなり。しかもなんか個人的に面白いなって思うのはなんかハッカーってあの男しかいないんですよね。女ってなんか全然いないらしくてなんかそれもなんかちょっと不思議だなって思いますね。まあなんかいたずら心だけで本当に犯罪みたいなことするのって男だけなのかな。あとやっぱり家に引きこもってなんか機械に夢中になるナードな性格っていうのもなんか男っぽいところもあるんでしょうね。なんか女の人ってハッキングとかしないんでしょうね。

なんでなのかちょっと言うかわかんないですけどみんなサイファーパンク生まれてきたりとかビットコインも生まれてますよね。ビットコインもうちょっとあとか同時多発テロのあとぐらいかな。2000年代に入ってからねマウントゴックスっていう大きい事件とかあったりとかしたんでえっとすみませんビットコインについて話すのはまたいつかにしようかな。結構今もビットコインとか詐欺コインみたいな詐欺と違われそうになるけど元々はそういう西海岸のこういったそのハッカーたちが盛り上がって作ったカルチャーでかなり思想的にも強くてそういったそのマスメディアっていうあり方が中央集権的だって言ったのに対してそのビットコインっていうのは

政府とかがなくてもお金っていうのが管理発行できるよっていう仕組みなのでそういう中央集権的に管理されたところから逃れられる一種の新しい手法なんじゃないかっていうことでその中央集権から自律分散型ディセントラライズドとかよく言われるですけど自律分散型の社会になるんだていうキーワードというか駆け声とともにですねビットコインめっちゃ盛り上がってて大体2010年ぐらいですかね俺も友達がビットコインの会社でスタートアップ始めてて俺ビットコインやってたんですけど俺ビットコイン始めた時ビットコインの値段4万円ぐらいでしたからね一時期ビットコインの値段2000万ぐらいになってたんで本当何倍だよっていうぐらいの

あの価格に跳ね上がってて俺マックス10ビットコインぐらい持ってたんで普通にそれ全部ずっと持ってたら俺今頃億万長者じゃなってたんですけどまあ普通に早々に売っちゃったんで全然億万長者にはなれなかったなっていう俺投資の才能ないわって思ったんですけどそんなビットコインあまりにも跳ね過ぎて今詐欺みたいな感じになってますよねそのイメージは払拭して欲しいです本当にあのビットコインって社会変革の夢に溢れたプロダクトだったんですよねちょっとビットコインについて語っちゃったんですけどそのこの辺からっていうよりもまあ昔からあったんですけどその中央集権的な体制に対するなんか戦いみたいなのはインターネット草創期このハッカーとかヒッピーとか

ずっとあるんですよねもう一人テッド・ネルソンっていう面白い人いるんですけどこの人1970年代ぐらいじゃないわ1960年代ぐらいにハイパーテキストって言ってその今のインターネットのひながたになるような概念を初めてあの言葉にしたすごい偉大なテッド・ネルソンっていう人がいてこの人1970年代ぐらいにそういうハッカーとかヒッピー向けのコンピューター雑誌みたいなのがすごい出ていてその時にすごい有名な有名になった人なんですけどこの人の本とか読むとやっぱりそのビットコインと政府の話じゃないですけどプライバシーを全て知っているものとそうじゃないもののコンピューターっていうのは戦いになるよと

情報っていうのは全部筒抜けだからそういった情報を握っている人たちと握られている人たちとの戦いっていうのはずっと続くみたいなことを予見的に本で言ってなんかそれはすごく印象に残ってるんですけどこのテッド・ネルソンも言ってますねだからやっぱその中央と自立してその情報を発信する人の対立とかっていうのは昔からあるしプライバシーとかっていうのもここでやっぱり問題として浮上してきますよねだから今までプライバシーがとかなんかそういうのをなんかすごい言われるような時代だったような気もしますねちなみに話あちこち飛ぶんですけどこのテッド・ネルソンハイパーテキストっていう概念を

もう発明してすごいことなんですよそのインターネットっていう概念がない時にこれができるって言ってでみんなそれを信じたわけですからでもこのハイパーテキストの原理を原理に基づいてテッド・ネルソンザナドゥっていうプロダクト作るんですけどこのザナドゥっていうザナドゥプロジェクトっていうんですけどこのザナドゥは1960年ぐらいからテッド・ネルソン話題なんだけどなぜか2000年ぐらいにザナドゥプロジェクトがやっとできた2000年になって出すんですよねでしかも全然話題にならなくて使い物にならないっていう商品だったらしいんですけどでもこのハイパーテキストっていう思想自体はすごく大きな影響を与えているらしいです

ちなみにこのテッド・ネルソンはなんでこの人が作ったプロダクトうまく機能しなかったかっていうとこのテッド・ネルソンが提唱したハイパーテキストってコピー&ペーストができない設計なんですよね書いたものが絶対にその書いた人にちゃんと権利が帰属するべきだみたいなことを言っててテッド・ネルソンはだからそういうリンクっていう概念はあるんですけどそのリンク元の文章の権利っていうのはちゃんとその人それを書いた人に帰属してでなおかつリターンはその人にちゃんと支払われるっていう設計にこの人こだわってるんですよだからWWWとかワールド・ワイド・ウェブはそういうリンクっていう概念を

まあそのコピー&ペースト無限にコピーできるよっていうふうに設計してるんで全然違うんですよね結局このテッド・ネルソンが言うこともわかるしむしろこっちが実現してたらまあ世界も変わっただろうけどコピーに溢れた世界にならなかっただろうけどまあ現実には即してなかったんでしょうねでもこの人言ってること間違ってないからいやだからこの人このテッド・ネルソンはまたyoutubeでそれをずっと文句言ってて普通に未だにこのコピー&ペーストマジでおかしいつってyoutubeで発信してましたからねこの人昔見たんですけどこのタフだなって思いながら是非あのテッド・ネルソンyoutubeにいるんであんまり

再生数もついてなかったよ是非誰か見てあげてくださいテッド・ネルソン奇人ですで話されてまた俺どこまで話すわかったのまあこういうプライバシーとかね中央集権との戦いみたいなものがまたインターネットによって起こってきますねそれはやっぱりその発信をする力っていうの個人が持ったっていうのはすごく大きなことだと思うんですよねほんと最近ですからね90年代なんでで90年代ぐらいにね何だ何話そうかなインターネットですよインターネットが表現時代に何を変えたかっていうことが言えたらいいんですけどそんなのわかんないよねって言っていいのかなみたいなところもあるしでもわかんないって言ってもしょうがないし

まあ今現在俺が思う事件みたいなのまた今後言っていこうかなと思いますとりあえずはでもその話はもういつかまたにしてとりあえずはそうだなインターネットが表現の何を変えたかは語れなかったけどインターネットの触りぐらいまでは話せたのかな今日はこんな感じで終わらせようかなはいご清聴ありがとうございました本当に聞いている人がいるのかどうか分からないですけど引き続きこの独り言は手法としてはまあ楽でなおかつ情報量も多くて良いやり方だなと思うんでたまに聞きかぶいた時にやっていきたいなと思いますはい

文字起こし全文(スクロールできます)

直したほうがいい事実

記憶で喋っているので、事実の取り違えがあります。以下はAIに洗い出してもらったものです。話の筋そのものは変わりません。

補っておくと話が通りやすいこと

テレビとインターネットのあいだについて喋ってみた。


前回の続きです。フルクサスの終わりから、テレビ、衛星放送、月に立って地球を見たこと、ホール・アース・カタログ、そしてコンピュータの手前まで、53分55秒。今回も本人による前書きはありません。以下の要約と文字起こしと訂正は、すべてAIによるものです。

一応、しゃべったことのAIによる要約

しゃべったことの全文

サーバー上の whisper.cpp で書き起こし、固有名詞の誤認識を118箇所、機械的に置換しています。言い回しや語順や言い淀みは直していません。一箇所、「表象的集合意識」という語だけは自動補正が既存の心理学用語に寄せてしまったため、音に近い形へ戻してあります。当初は「表層的」と当てていましたが、後日あらためて聞き直した結果「表象的」に直しました。それでも確定ではありません。

仕事をやっていきたい。毎回本当に喋れんのかなと思いながらやってるんですけど誰が聞くわけでもないし自分のためにやっていることなのでもう気にしないで今回もやってしまおうかなと思っておりますで前回フルクサスについて話したんですけどもフルクサスからちょっと次の展開に移って話したい時にキーマンになるのがナムジュンパイクなんですよねナムジュンパイクはもともとプリペアド・ピアノとかそういった実験音楽フルクサスのメンバーとやっていたんですけど途中からというか後期の作品についてはテレビを題材にしている作品をたくさん作ってるんですよねあと映像とかでこのテレビがフルクサスにもかなり影響を与えていると思うんで

この技術が表現に対してどういう影響を与えたのかっていうのを話していこうと思うんですで僕は今回この情報技術と美意識の変遷で活版印刷とかを起点に話しているんですけどこれ僕が全部位置から研究して作った説じゃなくてこの時代に活躍したマーシャルマクルーハンっていう哲学者というか社会学者というか未来学者というか特殊な思想家の人いるんですけどその人の説に結構沿ってるところもかなり多くてその人がテレビについて語る時によく言ってたのが活版印刷が生まれて宗教改革が生まれて情報空間っていうようなものが生まれるっていう編成を経たんですけどそのグーテンベルクで活版印刷が生まれる前は表現っていうものがどういうものだったのかっていう

話を少ししたいんですけど元々芸術=宗教みたいな時代だったりもしたんですけどもちろんその宗教以外の表現っていうのもあってどういう表現だったかっていうとほとんどが舞台芸術だったんですよねその街の中に舞台があってそこに集まって街の人たちはその舞台を見て芸術っていうものと触れていたとだからルネサンスの頃と木半印刷は割と近いんですけどだいたい1500年とか1600年くらいっていうのは演劇が中心なんですよねだから例えばその頃も戯曲というか一番有名なのはシェイクスピアなんですけどシェイクスピア今文庫本で売ってるけどあれはもう全部舞台のセリフなんでそういう人間の群像劇みたいなのを舞台で演じていたと

そこの中には人間ドラマもあって手塚くもあってそして演じるという役者がいてなおかつ舞台なんで舞台芸術があってそこに音楽なんかもあったりしたんじゃないかなと言うなれば結果的に総合芸術なんですよね木半印刷が生まれていこう芸術っていうのがどんどん枝分かれしていくっていうかもちろん総合芸術があったんですけど絵画は絵画音楽は音楽別々に発展していったりするんですよねそれはやっぱり例えば音楽はラジオがあったりだとか絵画については印刷技術があったりだとかそういう機能的にも分かれているので表現自体も分かれるんですけどこのテレビっていうのが生まれた時に総合芸術に回帰するんですよね

テレビっていうのは音楽もあり役者とかセリフもありもちろんその言葉としての表現もあるんですけども現実で舞台を見るかのように総合的に表現ができるメディアだったんですねだからフルクサスっていうのが表現が前の回で僕が現実そのものを表現に取り入れていくっていうようなことを言ったんですけどそれはテレビの普及1950年代くらいから起こったその影響っていうのが表現自体にも相関しているんじゃないのかなとあくまで仮説なんですけどやっぱり時代を生きていてアーティストがテレビの影響を受けないわけないなと思うんですよねここに来てナムジュンパイクなんですけどナムジュンパイクはテレビ自体を

表現の自分自身の彫刻の素材に使っていくんですけどテレビですねちなみにそのテレビの特性っていうのは受信専用なんですよねこれからインターネットについても話していこうと思うんですけどインターネットっていうのは自分自身が発信者になれる今の現在のSNSなんかもそうですけど受信も送信も双方向でできるインタラクティブなものだったんですけどまだこのテレビが生まれた時代っていうのは視聴者っていうのは見ることしかできないそして発信っていうのは中央集権的に技術やテレビ局を持った最先端の都会でしか起こっていないとというような形だったんですよねだから人は一方的に受信するしかなかったんですけど

「ナムジュンパイク」の代表的な作品でビデオ・ブッダっていう作品があるんですけどこれはテレビに仏像を写してそれを視聴者が眺めるような形のだからテレビ自体をそういう仏教的な空間に例えたような作品なんですねちなみにこのビデオ・ブッダ生まれた時には衛星放送っていうのも生まれるんですよこのまた衛星放送っていうのがめちゃくちゃでかいんですよねこれの影響がでかいのは一つの情報が同時多発的に世界中に発信できるようになったんですけど「ナムジュンパイク」はそういった世界中を巻き込める世界空間っていうのがテレビの中にできてそしてその中に象徴的に現れる存在として仏像みたいなのが現れたんですけど

なんで物造なのかっていうとテレビってあらゆる人間の群像劇みたいなのを放送してなんかある文献では本当にチベットの僧侶とかがテレビを眺めて「あ、これは涅槃と同じだ」みたいなことを言ってるんですよね「ナムジュンパイク」もテレビの形而上学的な空間っていうのをそもそもその形而上学的な空間として捉えていわゆる自然体験みたいなものがあるというようなものも表現として表現したかったのかなって思うし人間を超えた存在が見てる人を俯瞰しているようなそんな作品ですねこの価値観っていうのはやっぱりインターネットにもつながってくるしインターネット始まったときにスティーブ・ジョブズが鈴木大拙っていう禅の僧侶とかを信仰してるんですけど

東洋思想っていうのはこのテレビの空間を表現する上で良い素材だったんでしょうねでこの時に例えば衛星放送が起こったことによって芸術の評価自体はかなり大きく変わってるとは思うんですよねビートルズがビートルズのライブ映像が世界中に放送されてある一つのメッセージがいきなり世界中に届くっていうことが起こったんですよねでその時に彼らがやっぱり歌ったことって例えば世界平和だったりとかでボブ・マーリーもワンラブとか言ってたりとかあとは何かな方法が世界に届けられるんでメッセージ自体も世界全体を意識したメッセージになっていくんですよね例えばラジオの時代にビートルズがラブ・アンド・ピースを歌ったかっていうと歌わなかったと思うんですよね

これはやっぱりテレビの力が大きかったと思います世界平和を歌ったかっていうのは何点かあると思うんですけど一つはこの時にベトナム戦争が起こるんですよねベトナム戦争が起こった時に若者たちが反戦運動みたいなことを起こすんですけどそれをその若者たちの精神的な基盤というか何がショックで反戦運動したのかっていうとベトナム戦争で傷ついている少女の写真みたいなものがすごくその当時はセンセーショナルだったんですよねそれなぜかっていうとたぶんそんな戦争の映像っていうのをこの当時の人たちはまじかに見てこなかったんですよね初めて見て自分たちの国がこんなにひどいことをやっているんだと思う

いうことをやって非常にショッキングで反戦運動につながったとこれはもう完全にジャーナリズムの勝利ですね結局本当に国を動かすレベルの運動になってどこまで収束の力になったかどうか分からないですけど一つの社会を動かす起点になったということですよねだから反戦運動の方法としてこのメディアっていうのはかなり機能していて当時同時多発テロとかで世界貿易センタービルに飛行機とかを突っ込んだりしましたけどそういうセンセーショナルなテロリズムっていうのもやっぱり人に訴える力があったと思うしそういうのを意図してやったんじゃないかなと思いますしまたね、情報技術によって反戦運動の形も変わってますよね

今回直近で言うとガザとかガザとかに関してはもうSNSの時代になってたんで被害を受けている戦争の当事者が生々しい映像を発信しまくるっていうそんなことが起こっててこの手法もかなり新しかったんですよねこの状況はかなりすごいと思って僕自身もショックだったのもあるし状況としてこれはすごいなと思って興味もあったのもあったりとかいろんな思いもあって反戦運動みたいなデモとかに参加したんですけども結果的にではないかもしれないですけど今はもう超スーパー情報社会で情報単体の意味がかなり薄れていたんでどれだけ拡散しても全然人の心に響かないそうかつエコーチェンバーというものがあって届くべき人に

そういうショッキングな映像が実際届かないっていうようなことが起こってたと思いますねそれが現代だと思うんですけどベトナム戦争時はそういうこと全然起こってなかったんでみんなショックを受けたんですよねあとは衛星放送については何かな文化的にもかなり変えてて時代は少し後になるんですけどニューヨークがなぜ世界の文化の中心になったかっていうと衛星放送によってニューヨークのカルチャーが世界中に発信されたんですよねだから70年代80年代ぐらいのカルチャーがニューヨークのカルチャーが世界的に伝播したんですよ今僕音楽が好きなんで音楽に例えちゃいますけど例えばロックとかハードコアもあとディスコも

パンクもあとは他に何があるかなあとヒップホップこれも全部70年代80年代ぐらいに全部ニューヨークという街で起こっていたんですよね本当に一つの街で世界中の文化になるような基盤の文化が生まれてたんですよただそれはただ単純に全てのカルチャーが実はこの当時のニューヨークのご近所カルチャーだったんですよねヒップホップ今ものすごい力で世界を設計してますけど全然その隣でハウスが生まれてたりとかなんか隣町で起こってましたみたいなそんなことが起こってますよねそれはなんていうかすごいことだったなって思うしそれが世界に届いてなおかつそうですね日本とかいろんな国もそうですけどテレビで見てそのカルチャーを誤解して

ローカライズされてまたわけ分からない変なディスコとかそういうことが生まれるっていう特殊な現象が起こってますよね面白いなって思いますけどなんでニューヨークが文化の起点になったのかっていうとやっぱりそれは衛星放送の力だと思いますねもちろんニューヨークだけじゃなくてイギリスとかも文化の拠点だったんですけどそれもやっぱり衛星放送でヨーロッパとアメリカが同時的につながることができたみたいなことがあるんじゃないのかなと思いますねはいであとは何かなで、ナムジュンパイクはこのビデオ・ブッダからまた一つちょっと一歩進めるんですよねビデオシンセサイザーっていうのを作っててナムジュンパイクは

テレビの映像、まあエフェクトみたいにグリッチみたいな感じで歪ませたり色んな色つけたりとかそういう装置を開発するんですよね日本の技術者とこのビデオシンセっていうのは結構なんかインターネットとつなぐ存在なんじゃないかなと思っててこれテレビって受信専用なんですけどその中に手を触れるというそして歪ませるそんな受信だけの体制みたいなのをですねこのビデオシンセサイザーっていうのは克服してますねそういう意味ではなんか少し一歩進めてるなって思いますこの時代はすごいですね色んなことが起こってますね人類も月に行ったりしてますからねこの月に行くっていう例がまたすごいなと思うんですけど

これはあのハンナ・アーレントっていう社会学者がいるんですけど今ここではそのハンナ・アーレントがどういう思想だったかとは説明しないんですけどここが結構びっくりしたのびっくりしたというかなんか大きいんじゃないのかなと思ったのは人類がその月に行って地球そのものを見たんですよねでこれって全然開会ぐらいにデカルトの地動説、天動説みたいな話したんですけど実はこれくらい大きかったことなんじゃないのかなと思っててハンナ・アーレントもその月に立ったことがすごすぎるって言ってて僕もなんかそこにすごく共感っていうか驚きというか共感したとか言ったらおこがましいんでそれぐらいデカルトぐらいの価値の転換みたいなのを起こしてるんじゃないかなと思って

その自動説が生まれたときに人間って世界の中心じゃないんだっていうことを人が悟って自分自身を疑うことを覚えて自意識っていうのが生まれたっていうような話したんですけどその後フロイトがその下に眠る無意識っていうようなそうも発見したりもしたんですけどこの人間がその月に立って地球そのものを見たっていうのはもう自分自身を宇宙から俯瞰するようになったんですよねだから自分自身をメタ認知するっていう風な言い方がいいのかどうかわからないんですけど自分自身を俯瞰するんですよね地球そのもの地球に住んでる人類は一つなんだっていう思想もここで生まれてきてると思うんですよだからボブ・マーリー、ワン・ラブとか言ってるし

ビートルズもラブ・アンド・ピース、人類みんな一つみたいなこと言ったりママアフリカみたいな感じでクイーンの映画とかでもありましたけどアフリカ起源みたいな人類の起源大切にしよう守ろうみたいな視点が生まれてきたりあと大きいのは環境問題ですね人類自体が地球自分たちが生きている場所を傷つけてるんだっていうような目線を獲得したのはこれはやっぱり月に立って自分たち人類というものを俯瞰するっていう目線を獲得してるんですよねこれは大きいんじゃないかなと思いますよ実際宇宙に行って似たような時期に衛星放送も生まれてるんでそんなアポロ計画あるんですけどこれNASAが写真を持っててこの時は当時冷戦ですよ

ロシアとアメリカがずっと戦っていて戦争するんじゃなくて技術競争になったんですよねロケット飛ばしてどっちが先に打ち上げるかみたいな競争をしていたんですよねベトナム戦争もやってたんですけど共産主義と資本主義が戦ったりもしてたんですけどちなみにこの時にアメリカの工場の役割を果たしたのが日本ですねだからここでもう日本が高度経済成長に乗りまくるんですよね高度経済成長に乗ったっていうのはベトナム戦争も大きくて兵器の基盤になるようなものをたくさん日本が作ってたりとかアメリカの本当に下請け工場になって日本円が安かったりとかもしたんでもうガンガンガンガン技術革新が起こってですね

最終的に80年代くらいにもうニューヨークの不動産まで手出してバンバン日本人が調子に乗り始めて最終的にその半導体の製造とかそういうのをアメリカに防護にされるんですよね90年代の輸出規制とか今がアメリカが中国に行ってるのと同じですよ完全かけて輸出しないぞとか輸入しないぞみたいなやりとりをして日本を防護にするんですね最終的に日本は軍事的に守ってもらってるんでアメリカのいうことを聞くんですよね日本のバブルも弾けて失われた30年始まるみたいなことになったりもしてるのかもしれないんですけどそれはさておきそんな技術革新も進んで人類は宇宙に行くわけですよねでこの時に NASAに対して

私たちは宇宙に行ったのはニュースで知ってるけど地球そのものを見たことがないだから写真出せよって言った人がいるんですよねこれがスチュアート・ブランドっていう人なんですけどこのスチュアート・ブランドはもうスーパーキーマンなんですよねホールアース・カタログっていう通販の雑誌作るんですけどこれがベトナム戦争でラブ・アンド・ピースの運動としてそのヒッピー生まれてくるんですけどヒッピーのバイブルになるんですよ有名な話で言うとスティーブ・ジョブスも当時そのヒッピーだったんでスティーブ・ジョブスのバイブルとして持ってるのがこのホールアース・カタログなんですよねホールアース・カタログの内容なんですけど

これは通信販売のカタログなんですよね自立した生活とかを行うためにナイフとかいろんな道具がそのホールアース・カタログ見て通販できるっていう本なんですけどこれ何のために作られたかっていうとベトナム戦争を起こってヒッピーが大量に生まれて体制というものをもう本当に無理みたいな既存のメインカルチャーに対するカウンターカルチャーとしてヒッピーっていうのが生まれてくるんですけどこのヒッピー2種類いるんですよねヒッピーとジッピーっていうやつがいてヒッピーはスーパーその自然回帰でもうテクノロジーとか社会壊しまくってるからもう嫌で田舎帰って自立した自分たちの理想郷を作るんだって

荒れ果てた田舎行ってLSDとか飲んで自分たちのコミュニティーを作ろうとするんですけど本当に今と似てますよね都会嫌だって俺なんて田舎帰って農業してますけど田舎帰っていきなり都会で出てきたやつが農業なんてそう簡単にできらけないんですよ生活の仕方が全然わかんないそんな中で仲間たちを作るためになおかつその理想郷を自分たちで作っていくための道具っていうのを通販で売ろうと仲間たちを作っていくためにこのホール・アース・カタログを作ったんじゃないのかという話がありますねで象徴的なのがこのホール・アース・カタログは表紙に衛星写真にならった青い地球の写真を表紙にして通販カタログを売ったんですよね

でもう一つこのホール・アース・カタログ生まれてヒッピーたちも買うんですけどヒッピーという人たちともう一人ジッピーってやつらも生まれてくるんですよもう一人じゃなくてそのグループでこのジッピーっていうのはどういうやつらかっていうと基本的にヒッピーのりなんですけどこいつらコンピューターにめちゃめちゃ詳しいんですよね自分たちでコンピューター作って例えばスペースインベーダーとか作ってもうみんなでスペースインベーダーやりまくるみたいなそんなやつらなんですけどこのジッピーですよだからスティーブ・ジョブズとか完全にジッピーですよねで一緒にアップル作ったなんとかウォズニアックっていう人

とかはその電話の交換機と改造して無料で電話できる機会とかを作ってでスティーブジョブスとかは詳細があったからそれをなんか学生寮とかに売り付けて人もおけして彼女と海外で遊ぶみたいなでLSDよくみたいなことをやってたみたいですよはいでここでそのコンピューターっていうのが生まれてくるんですよねもともとはアマチュア無線機とかから始まってくるんですけどそれがどんどんどんどんアマチュア無線機改造したりとかしてで電話交換機作って情報を交換するみたいなことになっていくんですよねで電話で声だけじゃなくって簡単なプログラムみたいなのも交換し始めるんですよねこれはやっぱりテレビの受信だけの機能だけじゃなくて

双方向のコミュニケーション受信と発信両方ともなった今で言うそのインターネットのひながたですよねそれが始まってきますねこのラブ・アンド・ピースジミ・ヘンドリックスとかがウッドストックでギターとか弾いてるんですけどこのジッピー、ヒッピーの中にジッピーもちゃんといるんですよねだからグレイトフル・デッドのメンバーの中にはこの時はハッカーっていうのも生まれてますからねハッカーとか電話回線勝手に入ってなんとかウォズニアックさんとか普通にローマ法王とかにイタ電とかかけてるんでそういう中央集権的なところにいきなり忍び込んで電話書けたりとかデータ盗んだりとかっていうのをこいつら銃を無事にやりまくるんですよね

規制っていうのが全く追いついてなかったんでそんなイタズラかつ反体制のインテリたちがそんな壮大なイタズラもしてた時代ですねヒッピーですみません話を戻すんですけどグレイトフル・デッドのメンバーの中にも例えばそのハッカーの太太を訴える保護するような運動しているメンバーとかヒッピーの中にねなんかちょっと頭のいい奴らがまぎれ込んでるんですよ最終的にヒッピーとかコミューン築けずにほわっちゃってこのジッピーって奴らが成功するんですよサンフランシスコに行ってバークレーっていう学生運動とかしまくってヒッピー文化を運んでくんですけどそれがシリコンバレーの雛形になってますからね

この人たちはすごいですこのヒッピーとかジッピーはもうLSDをやりまくるとこれなんでLSDだったのかっていうところなんですけどそれはそのLSDとパソコンっていうのも生まれてくるんですけどコンピューターとかパソコンとLSDは同じだって言ったやつがいるんですよねそれがティモシー・リアリーですねこの人は思想化みたいな感じの人なんですけどティモシー・リアリーはチベットの死者の書っていうのがヒッピーたちのバイブルになるんですけどそれをご利用ししたのもティモシー・リアリーなんじゃないかなドラッグも流行りますねLSDだけじゃなくてサボテンみんなで食ったりとかメスカリンとかそういうサイケデリックドラッグっていうのが流行るんですよね

これは何のために彼らがやったかっていうと例えばナムジュンパイクの時にビデオブッダみたいな話もありましたけどそういう形而上学的な空間みたいなものがそういうテレビから延長したこのコンピューターの中で振り広げられていくですけどこれを精神の拡張だって言ったんですよね誰が言ったのかティモシー・リアリーとかそんな言い方してますけど知覚の拡大ですよねだから自意識っていうものが表象的な世界全体の意識とつながるでもその構図自体はインターネットそのものだよねっていうコンピューターそのものだよねっていう自分自身がテンパに載せて世界中につながることができるそれが自立的に自発的に発信者になるんですよね

感覚を技術的に体験できるきっかけとしてこのLSDっていうのがかなり使われ始めるんですよねそういうサイケデリックの幻覚を見て精神を拡張させるんですよねそれで何かアイデアを得て何かすごいコンピューターみたいなものを作ったりする人もいるしもちろんそのビデオシンセサイザーも生まれてますからねいろんな表現に活用していくっていうそういう芸術っていうか思考の爆発みたいなのが起こっているんですよねそれのドーピング材としてLSDっていうのが流行ってますねこれ新しい文化が生まれるときにドラッグっていうのはかなり重要な重要なというか機能的に働くんですよね前前回第2次世界大戦第1次世界大戦くらいの頃に

近代芸術が生まれたときもコカインがすごいまん延してるっていうかコカインが発見されててみんなコカインやってるんですよ俺が話してたマラルメとかも本読んでたらめちゃくちゃコカイン出てくるしあとル・コルビュジエですねル・コルビュジエとかもコカインの読み方だけみたいなことを永遠書いててこの人完全に依存症じゃんみたいな感じでル・コルビュジエ何やってんだ?みたいな感じ読んでたりあと面白いなって思ったエピソードは無意識発見したフロイトなんかもドラッグと思ってやってないんですけどね滋養強壮剤としてコカインを常用しててこの新しい元気つける薬のコカイン最高だよってフロイトコカインやりまくってて

みんなにこれ依存症とか全然ないからってフロイトみんなに進めまくるんですけどコカインをめちゃめちゃやりまくって依存的な症状が出ないのはフロイトだけでみんなのコカインやりまくって依存症になってくんですけどフロイトは普通に平気だったっていう馬鹿なエピソードがあったりしますねそんな感じで精神の拡張する機能というか発信点みたいな感じでドラッグっていうのもLSDですねこの当時はLSDが機能していたと別にこんなこと言ってますけど別にドラッグ指示していませんからね僕はダメ絶対なんて思ったりしますけどはい推張するようなことはありえませんということでそんな感じですねでLSD流行ってますね

でこの時にやっぱりそのコンピューターっていうのもベトナム戦争なんですけどソ連とアメリカの冷戦ですねこの時にやっぱりその技術競争っていうのがすごく盛んになって半導体の技術がすごくするんですよねでしかもそれをやったのがやっぱりその日本のIBMとかがやってて急成長しますねで日本の当時の80年代のNTTとかはもう最先端ですねめちゃくちゃすごいですそういう後押しもあってコンピューターっていうのはどんどんどんどん発展をしていくということですねいろんなことが起こってますねそろそろ今回の話をまとめようかなとか思ったりもするんですけどもうちょっと何か話したことがいいことがあるのか

ベトナム戦争戦争の歴史じゃないですけどあんまり詳しくないけどその経済の話するとベトナム戦争は当然冷戦にはなってくるからちょっとこの話は後にしようか次回の時にいつか話そう何話そうかな何をまとめればいいのか俺はフルクサスの時に表現自体がものから離れてパフォーマンスアートになったそのパフォーマンスアートになったのはテレビが影響だったんじゃないのかっていうのを目先で前回閉めたんですけどそうですねコンピューターそして人間が宇宙に行ったことによってですねそうだなまず表現の評価っていうのがこの視聴率だと思うんですけどいかに視聴者を獲得したかみたいなところも重要な表現の要素になってきますね

だからやっぱりビートルズとかがそうですけどどれだけ世界中の人に見られて影響を与えたかっていうのが芸術の権威みたいになってくるんですよねこれは現在のSNSの承認欲求戦争にもつながると思うんですけどこれが評価になるっていうのを逆手にとって表現したのがちょっと後になる80年代ぐらいですけどアンディ・ウォーホルなんかはそういったものをポップアートだとか言ってそれこそ広告自体をそういう宣伝行為自体を芸術にしましたよねそういった変化も起こってますねただこれの弊害によって結構アカデミックな芸術とかそれこそフルクサスみたいなことはかなり先進的なことやってるけどこういう承認されないと表現として認知されなくて

芸術性が高くないっていうのはすごく貴重な先進的なもの自体の権威アカデミックなものとかの領域は失墜させてるんじゃないのかなと思いますよねだってジョンケージがやってることとかってはっきりってわけ分からないから一般化はしないしフルクサスのメンバーだったオノ・ヨーコとかはジョン・レノンと結婚してますけどねそんな結びつきもあって自粋なんですけどなんてか貴重な表現っていうのは埋もれちゃったような気もするしそういう承認欲求戦争みたいなものがSNSの現代に起こっててそれで何かどれだけの認められない自分自身に無力感を思うような人を生み出してるかって思うといい加減このたくさんの人に認知されたものが

現実的に表現として権威を持つみたいな価値観は本当にやめてほしいなって個人的には思いますねなんていうか結構俺20代ぐらいからこういう流れにあらがっている個人的にはあらがってますよねあと何かなあとはやっぱりそのコンピューターとかテレビもそうなんですけどその表象的無意識っていうか意識的な空間みたいなものが生まれてますよねだから自意識無意識ときて表象的集合意識みたいな領域が生まれてるんですよねこの電気によってねこれも大きいですよねやっぱりこの領域っていうのが生成AIにつながっててうまく言語化したいんですけどなかなかできないなみたいなここ数日ぼんやり考えてたんですけど

なかなか言語化できないからちょっと一体何なんだろうなと思いますけどかには何か言えることあるのかなこの辺にしとこうかな日本も台頭しますよねこの時代ね80年代ぐらいにやっぱりこの戦争景気と技術革新で高度経済成長期で80年代日本はバブルを得ますよね結局アメリカにボコボコにされちゃうんですけどそうですねあとグローバリズムっていう概念がやっぱり生まれてるなと思いますよね情報が世界中に即時的に通信技術によって共有されるようになってそうだな後で言おうかと思ってたけど経済の体制自体も大きく変わるというか第1次第2次世界大戦の時に戦争起こると戦争なんでお金のこと言っていられないから

どの国も過剰投資をお金を過剰投資するということを起こるんですけどお金ってあれ自体は紙切れなんで信用を担保するものっていうのが必要なんですけど第1次第2次世界大戦は歴史とかで習っている人もいると思うし習っている人の方が詳しいと思うんですけどその時は金本位制だったんですよね金だったんですよ戦争でめちゃめちゃ金つくことによって金とお金っていうのが紐付かなくなってくるんですよねお金が過剰供給されて金自体がお金全体の信用を担保するものじゃなくなったんですよそれとアメリカが経済の中心に移った時にアメリカっていうのは金本位制をやめるんですよねドルと金を交換するのをやめてって

その代わりに何が起こったかっていうとドルと石油を交換するだからお金の信用担保するものとしてなおかつ世界で取引される基軸通貨としてドルがなったんですけどそれがだから石油と結びつくんですよねこれがやっぱり後々の湾岸戦争につながってくるし今現在も続いてますなんとか協定っていう協定名とか全然出てこないけどアメリカが石油とドルの石油の決済はドルを基軸通貨にしますっていう協定をやって世界中がドルを使うようになるんですけどそれを支えているのがサウジアラビアとかが主になって中東のいろんな国が入ってきるんですけどイランとかイラクとかその辺は入ってないんですよねだから結局アメリカが戦争しているのはイランで

イラクとか今はずっと戦争していますよねだからずっと争ってるんですよそれは石油っていうのがドルと一緒の基軸通貨になってドルの信用担保するものになってるからうまくいってくれなくて困るからそんな困難でゴチャゴチャする時代になってますよねあとはグローバリズムでそういうグローバリズムが起こったことによって分業化も起こってるんですよねアメリカっていうのは自分たちで作らずに安い日本とかで作らせたわけですよそしたら日本が技術的にものすごい成長しちゃって半導体技術世界一になっちゃってアメリカは叩くっていうことを起こったんですけどこれはもう今も中国でも起こってますよね結局日本がそれで起こされちゃって

世界の工場になったのが中国で中国が結局すべてを作って技術を進んでじゃないけどノウハウを身につけて今もすごい世界を大国になって一つ大きいのはねだからもう中国と日本って本当に似てるんですよね構造がでも中国っていうのは日本みたいな国防問題みたいなものないんでアメリカに守ってもらう必要せないんで今完全とかでバトってますよねそんなことが起きているとなおかつアメリカっていうのは自国の生産能力っていうのは落ちますよね当然落ちてしまってそれこそ僕ら没落する白人労働者っていうのを運んでしまうその没落した白人労働者の指示基盤をしているのが今のドナルド・トランプなんでそれはグローバリズムをしていたんですよね

だから世界中で一つのものを分業化していた時代なんですよねアメリカが発注主になって予想の国で組み上げてまたそれはアメリカが使うみたいなそんなことをやってたりとかしてこれはその分業構造なんですよね世界中でただそのグローバリゼーションが今限界を迎えているとでガチャガチャAIも出てきてガチャガチャしてるっていうのが今じゃないのかなとめちゃくちゃ大ざっぱに言ってますけどそんな時代の流れも感じますねグローバリゼーションこれ今は言わないですけどグローバリゼーションっていうのはまあ極論言うと400年前のその「大航海時代」の頃からずっと同じやり方してるんですよねアメリカっていうか

ヨーロッパ圏っていうのは武器を輸出してみたいなことまあけどこれはちょっといつかまたの機会に言いますねこれちょっとそうですね宗教改革を起こった時に聖書印刷しますけど聖書印刷したことによって一方では宗教改革を起こってるけど一方ではその聖書を持って布教活動してフランシスコ・ザビエルとか種子島に持って日本に来てるんですよねそんな大航海時代ぐらいからグローバリズムの「ひたね」っていうのがあるんですけど現代においてはものすごく緊張ですよね衛星放送とか電信技術っていうのが発展して即時的に情報を共有できるのでこういう世界の文字を体制っていうのが成り立ったんじゃないのかなと

いうことですそんなこんなでまとまってないけど今回の話をいちゃおうかな結局これのこのたわごとと誰が聞いてるんでしょうか聞いてくれてありがとうございます大好きです

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直したほうがいい事実

喋りながらの記憶違いを、あとから確かめたものです。

補っておくと話が通りやすいこと

デュシャンとフルクサスについて喋ってみた。


前回の続きです。第二次世界大戦が終わったところから、戦後のニューヨークとフルクサスまで、43分49秒。今回は本人による前書きがありません。以下の要約と文字起こしと訂正は、すべてAIによるものです。

一応、しゃべったことのAIによる要約

しゃべったことの全文

サーバー上の whisper.cpp で書き起こし、固有名詞の誤認識を103箇所、機械的に置換しています。言い回しや語順や言い淀みは直していません。一箇所、置換どうしがぶつかって「古池や」が重複したままになっています。

今後は一人語りをやろうかなと思ってますね。あまりにも家に引きこもってて、何と言うか喋りたいなみたいな気分も出てきたりとか、考え事もかなり多いんで、やっぱり黙って考え込むよりかはこうやって喋りながらやってみたらいいんじゃないかなと思ってます。今後はコインスタレーションオーナーについて説明します。前回テクノロジーとB式の編成みたいなところをずっと名前聞きに語って、第2次世界大戦終了まで行ったんですけど、再びですね、第2次世界大戦が終わった後みたいな領域をちょっと話したらなと思ってますね。結構、第2次世界大戦までのいわゆる近代技術って言われる領域は、自分なりにかなり好きだったんで読んでる文献も多いんですけど、

第2次世界大戦以降になってくると、文献とかも少なかったり、整理されてなかったり、みたいなところも多いんで、なんかうまく言えんのかなみたいなところもあるし、勉強不足のところがあったりもあるんですけど、こうやって喋る前にちょっとクロードとかと対話しながら、ちょっと曖昧な部分をちょっと整理しながらですね、少し事前準備的なこともしたので、したって言うことでもないけど、それに沿ってですね、話してみたいなと思いますね。さっそくなんですけど、前回その第2次世界大戦までの話をした時に、第2次世界大戦でアーティストとか芸術家っていうのがほとんどニューヨーク、

ほとんどと言ったらかんですけど、ニューヨークにかなりの重要なアーティストみたいなものが異常してて、芸術だけじゃなくて、経済の中心自体がニューヨークとかアメリカに映っちゃうんですよね。これ第2次世界大戦でアメリカって武器輸出しまくってて、もうめちゃくちゃお金も受けてるんですよね。だから本当に国として言うようになってて、アメリカって本当に地勢学的にすごくいい位置にいて、大変よと大勢用に挟まれてて、ハキルって戦争のリスクないから、武器を作ってもう輸出することでかなり儲かってるんですよね。これがやっぱりなんか大きいし、その世界の派遣を握ることになってしまったんですよね。で、舞台にニューヨークが映るんですけど、その前にその第1次第2次世界大戦中からずっと活躍してるマルセル・デュシャンっていうアーティストいるんですけど、

マルセル・デュシャン、これすごく有名な人ではあるので、見たこともある人結構いるかなと思うんですけど、知らない方も多いのかもしれないですけど、便器に自分の名前書いて泉ってタイトルつけて作品にしたりとかレディ・メイドっていう手法を作った人なんですけど、この人が結構ニューヨークに移住してから、1950年代、60年代ぐらいにフルクサスっていう芸術運動、ジョージ・マチューナスとか有名なんですけど、そういう芸術運動があった時に、普通にマルセル・デュシャンはニューヨークで、例えばジョン・ケージとかと友達なんですよね。結局ジュシャン自体はニューヨークに移って全然作品そんな作ってないんですけど、

ジョン・ケージとずっとチェスしてて、ジュシャンチェス好きだったみたいでずっとチェスしてたらしいんですけど、ただジュシャンのやったことっていうのが結構フルクサスとか、この辺の人たちの基盤になってるんじゃないのかなって、俺個人は思ってて、それをちょっと叩き台にしてジョン・ケージあたりまで語れたらなと思うんですけど、ジュシャンもともとは普通に画家で、未来派とかキュビズムみたいな絵を描いてたんですよね。そのあとレディメイドっていう、一応画期的と言われる表現方法を作るんですよね。

なんだかんだで表現自体が絵画とか彫刻とか、あとはシー描いたりとかっていう、従来の表現方法にとどまってたんですけど、ジュシャンがやったこのレディメイド、一応彫刻というジャンルになるんですけど、ジュシャンのレディメイドなんですけど、このレディメイドって例えば自転車の車輪を椅子みたいな台にくっつけて飾ったりとか、さっき言った便器に自分の名前って描いて、自分の名前描いて、タイトルつけて美術館に飾るみたいなことであったんですよね。これが個人的に何が面白いのかなっていうと、例えばジュシャンの泉なんですけど、

これは別に便器自体に意味はなくて、このタイトルがものすごく重要で、ジュシャンは別に便器が好きだったとか、便器がいずに見えたとかっていうことではなくて、人間の排泄という行為自体が表現行為につながっていて、なおかつ便器自体を想像の泉みたいなものに見立てて表現したんじゃないのかなと。これ僕の本当に個人的な勝手な理解なんで、すごくこれ解釈している人たくさんいるから違うよって言われたらそうなんですかってなるんですけど、僕自体は実際に存在するものに対して、それに内在している意味みたいなものを取り出すこういうジュシャンがしてるんですよね。これが結構面白くて、レディメイドって本当に既製品とかしか使ってないんですけど、ジュシャン全然テイクをあえてなくて、名前つけたくらいで、タイトルめちゃくちゃ重要なんですよね。

だから表現として何が面白いかっていうポイントは便器に対して泉っていうタイトルをつけた。この命名行為っていうのがまず一つの手法なんですけど、事物に内在する意味みたいなものをタイトルをつけるということによって作品化してるんですよね。話かなりそれちゃうんですけど、俳句とかいわゆる現実自体を描いて、そこにその裏にある意識みたいな、意味みたいなものをあぶり出す手法なんですよね。これ、俳句の話をするときにシュルレアリスムと俳句っていうツロカヨシスターさんっていう作者がいるんですけど、この人の本が近代芸術の矛盾した表現、矛盾によってその対象の意味をあぶり出すみたいな手法、シュルレアリスムがしてますけど、

これ、日本の俳句も全然西洋の文化が入ってきてないのに、江戸時代に既にやってたっていうようなことを言ってる人いて、日本のその芸術って実は、ゴッホとかが浮世絵見て浮世絵の模写までたみたいなこともやってるし、すごい東洋芸術って西洋の芸術にもすごい影響を与えてるんですね。浮世絵とか、遠近法も使ってないんですよ。浮世絵って、遠近法じゃなくて、物とのブズレ的な距離みたいなのが全然再現してなくて、作者自体の主観みたいなものと書いてるから、要は表現したいものがでかくて、表現そんなしたくないものは小さいみたいな書き方してるんですよね。これが実は、印象派の絵画の話をした時に、個人的な感覚っていうのが絵画に落とし込まれてるっていうような話をしたんですけど、

少し形は違うけど、そういう個人感覚みたいなものが浮世絵とかにも既に入ってるんですよね。日本も明治時代になって開国してるんで、日本文化っていうのが西洋の方に輸出されてるんで、アーティストとかもたくさん刺激を受けたみたいですね。それで相関してるのかわからないけど、実は関係してたという話しそれちゃうんですけど、ちょっと話しときたいんで、もうちょっと話すと、たとえば、俳句っていう手法があるんですけど、明治時代に俳句して、俳句の第一人者である正岡子規とか、そういう写実主義とか、西洋の絵画をちょうどその時に、日本にもその西洋の絵画っていうのが入ってきるんですけど、西洋の絵画の絵を見て、これは俳句だって言ったんですよね。なんでかっていうと、西洋の写実主義の絵を見た時に、

一つのフレームに何がおさめられてるかっていうのは、現実自体を描いていて、写実主義の絵って、現実を描いている裏にある信条みたいなものを読み取るのがそういう、なんていうか、写実主義の絵画の鑑賞技法であったんですけど、それは、一つの絵画の中に、たとえば山と人がいて、人も何かいろんな顔してて、そういう自然とか人とかの関係性の中から、この絵画の意味っていうのはこういうものなんだっていうようなことを表現してるけど、それは俳句も一緒で、俳句の中に現実の対象みたいなものを何種類か詰め込んで、その関係性の中からその読者自体が意味を組み取っていくっていうのが俳句なんですよね。だから正岡子規とかは、写実だって言って、俳句とかから個人的な話を取り除くべきだ、みたいなことも言ってたりとか、

あと正岡子規は短歌とか、短歌は5、7、5、7、7の部分で結構感情的なことを言うんですよね。でも正岡子規はそれも排除して、写実をするんだっていうことで、俳句をやったんですよね。しかも江戸時代に俳句っていうのも、俳句なんてなかったんですよ江戸時代。それは連歌って言って連歌しかなかったんですよね。みんなで輪になって5、7、5を誰か読んだら次の人が7、7っていう読んで、そしてそれを受けてまた5、7、5って読んでいくっていうスタイルが、その松尾芭蕉の時代だったんですけど、正岡子規は連歌だと、結局前の人の意向を組んで、また言っているからそこに個人の感情はないということで、

個性っていうのがどこにあやどっているんだっていうことで、正岡子規は発句っていう連歌を組む時に、一番初めに言った人の一番初めの9だけ、一番最初の5、7、5だけをピックアップして発句集っていうのを作ってるんですけど、そこに俳句を読む人の本当の個人的な表現っていうのが詰まってるんだっていうことを言い始めて、これが近代俳句の始まりなんですけど、それ自体の背景には当時入ってきた西洋の海外の影響があったんですよね。はい。だから現実、ありのままの現実っていうのは、実は内在する意味っていうのを持ってると。それがその表現に出てくるということらしいんですよね。

ちなみに、またそらしちゃうけど、俳句も松尾芭蕉の句とかは、写実だけじゃなくてシュルレアリスムみたいな、矛盾した表現とかも自然と入っちゃってるんですよね。そこもかなり面白いなって思ってて、古池や古池や蛙飛び込む水の音っていう、例えば句があるんですけど、この古池の部分なんか、完全にそのシュルレアリスムとかそういった部分の影響を俺あると思ってて、その池に古いも新しいも基本的にはないんですよね。でも読みて自体は古池っていう言葉に、すごく情緒を感じて、いいなみたいな感じで思っちゃうんですよね。

ここで書かしないですけど、何個かそういうシュルレアリスム的な句を内在しているこの事実って面白いなっていう。西洋も日本、全く違う文化の中に生きてるのに、同じ領域に辿り着いているっていう面白さありますね。また脱線してちなみにとか言っちゃうんですけど、江戸時代って日本にも木版印刷入ってきて情報革命起こっちゃうんですよね。だから印刷屋さんみたいなのがブチクソ流行って、浮世絵なんかも当然流行ってるし、

職業小説家とか職業俳人みたいなのが出てくるんですよね。それこそ松尾芭蕉とか完全にそうで、元々その短歌とか歌を歌うって事自体は江戸時代の前は武士の嗜みだったんですよね。だからみんなが集まって声に出して読むものだったんですよ。それを、室町時代に新古今和歌集っていうのがあるんですけど、それとかは室町時代超絶みんなバトっているから、

本当に悲しいみたいなもみじのちった姿が違うなんかしたたったみたいなのを、みんな輪になって覚えて叫んでうわーみたいな事言ってたわけですよ。でも江戸時代に木版印刷生まれて、漏れもなく俳句集みたいなのも沢山印刷されて、松尾芭蕉の事情自体は結構謎で実は忍者だったんじゃないかみたいな事言われたりもしますけど、誰だったかな。あと小説家、井原西鶴じゃないけど、小説家っていう職業を生まれるんですよね。

その版元っていう本を売って生計を立てる人たちっていうのが初めて江戸時代に生まれるんですよね。これはまあその木版印刷のおかげですね。その時に俳句自体も短歌から進化するというか、声に出して詠むものから見て楽しむものになるんですよね。だから言葉の使い方とかもどんどん変わってきて、まず感情も言わないし、見てかっこいい言葉選びになってくるんですよね。その延長線上に、写実っていうクールな表現みたいにどんどんなってくるんですよね。

そんな事が日本で起こっていてですね、やっぱり木版印刷っていうかメディア革命って、文化は違えと、本当に美意識みたいなものは、生意を投与変わらず結構大きく変えていて、しかもその変化っていうのは少しに通ってるんじゃないかなっていう事実があるような気がしてますね。すみません、すげえ話をそらしちゃったんですけど、話をもとに戻して、デュシャンのレディメイド。レディメイド自体も現実のもの自体を展示して、そこにタイトルっていうものを付すことによって作品化するみたいな行為を行っているんですね。その後、デュシャンの大ガラスっていう大作を作れるんですけど、その大ガラスについては、話はやめよう。

僕が言いたいのは、現実そのものが表現行為の土台になっちゃうんですよね。だから、絵画みたいなところ、キャンパスから離れちゃって、現実自体を表現として使っていく事になっていると。それが面白いんですよね。その現実っていうのはフロイトの無意識じゃないですけど、もの自体が持っている意味じゃなくて、そこに内在する意味みたいなものを人に訴えかける力がある。人に無意識みたいな領域を喚起させる力があるんじゃないのかなということでですね。で、ニューヨークに舞台を写すんですけど、フルクサスって何かフルクサスの略だったかな。みんなで溶け合おうぜみたいな意味らしいんですけど。ジョージ・マチューナスって人がやってるのかな。ただこの人の作品とかは、そんなあれなんですけど、ジョージ・マチューナスじゃなくて、ジョン・ケージからいきましょうか。

ジョン・ケージの作品1952年に、すごい有名な4分33秒とかあるんですけど、これ4分33秒に関してはもう何も演奏しないんですよね。何も演奏しないでタイマーだけセットして、4分33秒間黙って、黙ってる物音自体がもう音楽だ、環境音で音楽なんだみたいなことをやるんですよね。でもこれは実はそのなんか、別にいきなりケージが始めたわけじゃなくて、こういうレディメイドとかっていう事実自体、現実自体を作品化するっていう手法の延長線上にあったんじゃないのかなと勝手に思ってるわけなんですよね。今これ僕が結構いっぱい喋っていることで、受け売りみたいなことも実は知ったかぶりに自分の話みたいに言ってるんですけど、これに関しては今オリジナルで勝手に僕言っちゃってますね。でもなんか事実としてそんな気がしてて、いきなりこんなことをやるわけがないなって思ったりしてますね。

実験音楽みたいなものをどんどんやっていてですね、作品もたくさん作ってはいるんですけども、このケージの4分33秒とかは現実自体の物じゃなくてさらに音もそういう作品化してしまったというですね。画期的な表現方法だったということですね。現実自体にタイトルとか意味をつけるっていうのは結構重要で。ほかにフルクサスでイベントスコアっていうのがあるんですけど、ジョージ・ブレクトさんっていうのがやったイベントスコア結構、これも結構シンプルでカード用意してそこに指示とか書いてあって、容器とか水が別の容器にしたたるみたいな。本当にカードにそれとか書いてあって、そこに容器に水がしたたっていて、それをみんなで見てるだけで作品ですみたいな。

それ誰が見てなくても、これは作品なんですみたいなことになっていて、ジョージ・マチューナスとかこのイベントスコアってやつを勝手に通販で売ったりとか、そんなこともしちゃってますよね。フルクサスいろんなことやってるんで、僕はあまり言えないんで、ここもググってくださいっていう感じになってきてますね。でもこの通販で売る通もね、かなり流通自体も表現の中に取り込むっていうことをやってたりとかして。フルクサスとちょっと被ってるけど、河原温って言いますけど、ポストカードに時刻とか、日時とか、街の写真の普通のポストカードを人に送って消印をして、それを展示してたりとか。これもレディメイドっぽいっちゃっぽいし、こういうマチューナスを使った流通とか販売もみたいなのも表現として取り込んでますよね。だからやっぱりフルクサスと先駆的な表現だったなと思ったりしてます。だから、現実自体に意味を与えて表現みたいなことがどんどんどんどん行ってきて、他にもハプニングっていう。

ハプニングは何言えばいいのかな?ハプニングの作品、今なんか言えればいいんだけど、すみません、全然言えないな。例えば日本のハプニング動画だった赤瀬川原平がいきなり東京首都圏清掃整理促進運動とか行ってゴミ拾いだけするっていう作品とかやってますけど、これも別にただのゴミ拾いなんですよね。でも普通にタイトルという意味を与えて、清掃っていうね、単純に街を掃除するということではなくてですね、白いきてこれやるんですけど。まあ、タイトルを与えて汚れた東京を浄化するっていうゴミを拾うという行為によって心自体も綺麗にしないとみたいなことを訴えたのかなって思ってますね。

こういう作品かみたいなのが起こってくるんですよね。だからフルクサスとかこの辺の人たちとか言うのか、美術館に収蔵とかされちゃったらダメだみたいなこと言うんですよね。美術館に収蔵するなんて終わってる美術館は墓場なんて誰が言ったのかはしてたけど、言われてたりとかしてますよね。この美術館ってあるけど、モロその現代美術のこの時代の現代美術とはもうやってることが全然反してて、現代美術館って存在自体がもう矛盾してると僕は思ってますね。そんなこともないんですけど、ただその現代美術の潮流として美術館に収蔵されないアートみたいなものがもうこの時代に生まれてきてますね。

はい、面白いなって思いますね。他にはケージ、チャンスオペレーション。これも結構、ほんと説明できるのかな。チャンスオペレーションに関しては、今その現実に内在する意味っていうのを表現にするっていうことを言ってたんですけど、ケージはその現実に内在する意味っていうのを気付く瞬間っていうのが何が気付かせてくれるかっていうと、それ偶然だっていきなり言い出して、それをチャンスオペレーションって言ったんですよね。このチャンスオペレーション、本とか書いて言ったらもうすげぇチャンスオペレーションめっちゃ言ってるんですけど。

チャンスオペレーション歌ってる時にケージが作ってる作品とか、この時代も電子音楽盛んになってるんで、本格的にアカデミックでしっかり教育受けた人たちがノイズみたいな電子機器を自分たちでいじくり回してて、実験音楽作りまくるんですけど、この時にもうケージはそういう機械による自動演奏みたいなものはもうすでにやってるんですけど、ケージがやった作品とか面白いのは、そういう時代機械による自動演奏じゃなくて、易経の中国の裏映とかの易経、この易経のリズムっていうかスコアみたいなものを自動演奏に取り込んで、

要は機械の自動じゃなくて自然とか世界が動かす自動的な力みたいなもので音楽作品を演奏させるっていうような作品もケージ作ってますね。これはなんかもすごいなと思ったりもしてますね。今の時代、本当アルゴリズムの時代で機械からのコントロールっていうか自動化みたいなところから折りに閉じ込められて抜けられないみたいな時代に、ケージはそういう自動化も2種類あって機械っていう自動じゃなくて自然っていう自動機械みたいなものを表現に取り込むんですよね。ここで易経っていうのを取り出してくるこのケージのセンスね。この当時、東洋思想ニューヨークで流行ってて、日本からも鈴木大拙っていう前のお坊さん、

ヒッピーカルチャーの思想的基盤的になったような人もいるんですけど、東洋思想この時流行ってますね。だから易経だったのかなと思ったりとかもするんですけど。易経も最近ちょっと勉強したいんですけど、あまりにも文献がなさすぎて日本語の文献全然ないんで、なんか深掘りできてないんですけど。そことだけ読んだ本で面白いなと思ったのは易経の基盤って考え方で面白いなと思ったのは。人間って十月十日で生まれてくるけど、十月十日で生まれてくる間に、2ヶ月間は1年の間に2ヶ月間はお母さんのお腹の中にないわけですよ。

例えば、1月1日に生まれたとして、10月くらいまでお母さんのお腹の中にいて、赤ちゃんっていうのがどんどんお腹の中で育っていくと。易経の考え方ってすごい合理的な考え方で、そのお母さんのお腹の中にいる10ヶ月間で、人間の生きる上でのプログラムみたいなものが全部母親の体内にされるんだっていう考え方なんですね。確かに、確かにその通りだなと思って。だから、1月に生まれたら冬と春と夏と秋くらいまでは、母さん、母体であるお母さんと一緒に共に過ごすから、この期間っていうのは、体内にいる赤ちゃんにはプログラムされてるぞ。でも、残りの2ヶ月間ってプログラムされてなくて、全く赤ちゃんは知らないわけですよね、お母さんの体内にいないから。

だから、人間って、その十月十日から除いた2ヶ月間くらいはプログラムされてないままに生まれてくるんだと。だから、その1年のリズムの中で、そこの部分だけはかけて生まれてくる。例えば、易経の占いとかで、よく言われるのは、その誕生日が近い人は、相性が悪いみたいな、なんかオカルトチックな、何の根拠だよみたいなことを言うんですけど、易経の考え方としては、体内にプログラムされなかったその2ヶ月間、同じ、その2ヶ月間欠落してるから誕生日近かったら、同じかけてるものを持っている人同士は、相性が悪い。それはなぜならお互いが補完しえないから、相性が悪くなっちゃうんだ、みたいな考え方なんですよね。

だから、本当かよと思うけど、確かに言われてみればみたいなこともなんかぼんやり思っちゃう、そんな易経。でも、易経の時期に自然自体が人をプログラムするっていうような考え方があるんですよね。易っていうのはなんかすごい面白いなと思ってて、こういう今のアルゴリズムの時代に売らない的な易の考え方って本当にいいなみたいな感じで勉強したいんですけど、すごい勉強に言うような本が分厚いのか、なんか4、5カンくらいでセットで、なんか6万くらいするんですけど、さすがに本に6万易経を学ぶために今を打たせないわと思って買ってないんですけどね。

易経。易経の、そのなんか元にはなんか中国の玄学っていうのがあって、ちょうどその日本が建国する、後来、こうくりみたいな時代、山都政権が成立するぐらいの頃に中国で武則天っていう助手の時代に易経生まれてるんですけど、玄学。これみんなで竹林に入ってなんかドラッグみたいなのやりまくるみたいな。それでこう宇宙のシーンに増えて易経を作るみたいな。なんかよくわかんないなんかエピソードもあるんですけど、ただそんな学問も実はその日本に輸入されて山都政権で、それこそ聖徳太子とかが山都政権作った時に易経はそのたしなみとして教科書みたいな扱いでみんな学んでますからね。

だからその日本自体もその易経、安倍晴明とかいますけど、そういう神道みたいな部分っていうか、陰陽道とか、陰陽道とかもそういう易経の影響を受けているし、山都政権という日本が国として成り立った初めの基礎として易経ってあるんですよね。なんか気になってるから調べたいんですけど、今現時点で易経に関してはそんな感じで。例のご得達成しちゃったんですけど、ジョンケージに戻ると、そういう易経みたいなのも駆使してジョンケージがチャンスオペレーションみたいなことを言ってますね。はい。

えー、そして、そして、そして、他には何かな。そんな古臭す。そんな古臭すから、えー、俺何を言おうかな。古臭すで一番好きなの、一番好きなのはモートン・フェルドマンっていうピアニストなんですけど。何かな。モートン・フェルドマンの功績、図形楽譜っていうのを作っているのか。今話している文脈にハマるのかどうかわかんないですけど、モートン・フェルドマンが作った図形楽譜は、もうあの五線譜から離れて図形自体を楽譜にするっていうね。

だから絵みたいな一杯描いて、それを見て弾くんだみたいな。まあけど、図形楽譜に関してはもう本当にこれ読めんのかなみたいな。もしくはその図形楽譜自体がもう作品化されてて飾られてるみたいなのが現状なんですけど。そんなモートン・フェルドマンもいますね。モートン・フェルドマンのピアの美しいですね。しかもモートン・フェルドマンは芸術館ならずにニューヨークでずっと子供用のオモチャを作りながら全員音楽をやってるっていう既得な人で子供向けのなんかオモチャのマントみたいなのをずっと作ってるんですよね。

それをやりながら図形楽譜という画期的な実験音楽を作るモートン・フェルドマン。はい、僕がただ好きだったというだけですね。これでフルクサス。他にもこのケージと同時代に今ナムジュンパイクとかが出てくるんですよね。フルクサスの時代にちょうどテレビっていうのがね、普及し始めてまた時代が大きく変わってます。メディアの時代になってくるんですよね。

はい、で、メディアアートも生まれてきますね。ナムジュンパイクっていうメディアアートの先駆者みたいな感じでテレビになんかビデオぶったかとか言っててなんかぶった映しはみたいなことやってるような人もいるんですけどもともとそのナムジュンパイクもフルクサス出身ですね。フルクサスっぽい作品いっぱい作ってますね。プリペアド・ピアノっていう技法があるんですけど、ピアノの弦になんか物を置いて、ピアノ弾いて変な音を出すみたいな。

今実験音楽で結構やってる人多いんですけど、そういうのをパイクとかも普通にやってるですね。結構ピアノぶっ壊したりとか焼いたりとかいろんなことする人いっぱいいるんですけど、パイクもメディアアートやる前は普通にそういう作品を作ってますね。でもこのフルクサスなんですけど、基盤としては、現実そのものに意味を与えて作品化するっていうような走りからテレビも出てきたり、郵便制度なり通販とかも始まってくるからこの辺で、そういう通信販売とか、いろんな社会的変化みたいなのを作品に取り込んでくるのか。

そうですね。あと機械化もどんどん電子とか機械化みたいなのもどんどん起こってくるんで、それがどんどん作品に取り入れられていくというような時代ですね。だから結構思うのは、デュシャンの時代は例えば物体自体を作品化してるけど、今度フルクサスは情報みたいなもの、実体のないものを作品化してくるんですよね。街自体すらも失っていくんですよね。その音とか、そういう通販の販売もとか、ハプニングっていう行動とか、物じゃなくなってくるんですよね。現実を題材にするにしても情報とか、そういうソフトウェアみたいなものがどんどん作品化されていくという。そういう話題がフルクサスにあったんじゃないのかなと思います。

はい、結構経っちゃったな。10分くらいか。前は本当、1時間半くらいで、なんか、グーテンベルグから第2次世界大戦まで語っちゃったんですけど、ちょっとこれからはゆっくりやっていきたいなと思っていて、自分が勉強不足なところもあるし、ちょっとじっくり整理したいんで、今回はフルクサスについて、ただただ俺が好きなことを喋った、という感じです。聞いてくれた人、本当にいるんでしょうか。聞いてくれてありがとうございます。嬉しいです。

今日はこの辺で。

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直したほうがいい事実

喋りながらの記憶違いを、あとから確かめたものです。

AIの力と社会変化


 久しぶりの投稿である。最近はpcをさわって、claudeとの対話のラリーを続け、その先に、何かが出来上がっていくといった感じ。慣性の法則のように、初動があればスーッと動いていく。ただ、初動である情熱や心というものがない時は何もできないし。これを書いている今現在は何も思い浮かばず、アルゴリズムに身をまかせてSNSばかりしていた。浮草のようにぼんやりとながれる言葉やイメージが反芻する。揺れ動くなかで、確かなものを求める欲求が高まっていく。

 近況はさておき、とりあえず言葉にしたかったのは、AIの力がすごすぎて、ちょっと怖いなということ。プログラミングがまったくできなかった自分でも、本当にあっという間に出来上がる。もちろん、完璧なものではなく、なんどもテスト運用をしてプロダクトとしてみがきあげないといけないけれど、どんな人にも学習コストなくものがつくれるようになった。今はサラリーマンではないけれど、もし自分がサラリーマンだったらかなりの業務を効率化できる自身がある。しかし同時に効率化は人がいらなくなる。効率化とリストラはセットだなと。

 経営者なら効率化をとりたいだろう。社会的な課題や倫理的な問題はあるが、事業の持続可能性が最優先だ。多数の人間を守るために少数派を切り捨てるのを何度も目にしてきたし、自分自身もそういった憂き目にあったことは何度もある。AIのすごさを実感するたびに、このジレンマを思い出し、自分の気持ちは揺れ動いていく。零細個人事業主ではあるが、経営者の立場も雇用される側の立場もよくわかる。

 悲しいことが起こらないようにうまく使えばいいじゃない。ただそれは言うが易し。AIで効率化した分、従業員に還元して余暇をふやしてあげるなんてことにはならないだろうな。分配は企業倫理じゃなくて、政治的にしか起こせない。国でしかどうにかできない問題となると、どこの国に生まれたかは本当に重要になってくる。

 話が大きくなってしまった。こういうときは目の前の課題に集中すべきだなと。諸刃の剣は慎重に扱わねばならない。

楽器をつくらないと曲ができない


 表題は音楽のことだが、最近はめっきりclaudeばかり。モジュラーシンセは演奏せずに、持ち出せるようにケースづくりに励んでいる。音はならしていないが、でもこれは新しい演奏のためだ。屋外で気軽にできるようにならなければ、フィールドレコーディングやディープリスニングの実践にたどりつけないからだ。だから、間接的にはケースづくりも曲作りも同じことだ。

 演奏中についても即興演奏に目覚めて以来、周囲の音や楽器のセットという器の中で即時的に反応するため、何かを考える余裕もなく、エイッとかヤーッとかそんな程度のことしか考えておらず無心だ。流れに身をまかせてたどり着く場所がおもしろくもあるのだが、結局はセットリストという器の中でもがいているだけなのだ。なんというか曲を作っているという感じがしない。トラックメイクのように事前に仕込んで曲を作っているときは、制作中にめくるめく思いを省みて、やっぱりタイトルはこれだな!みたいなことを考えていた時がなんだか微笑ましい。最近はめっきりなくなってしまった。結局、機材のセットが大事なので、機材のことばかり考えている。claudeで機材もつくれるようになってきてるし、どんなシンセやシーケンサーつくろうかな!?とか。やっぱ倍音を基軸にするのがプリミティブで自然なんじゃないかな?とか。曲に感情をこめる機会が少なくなっている。むしろ、音を出す前にほぼすべてが決まっている。楽器をつくらないと曲ができない。

 こんなことをぼんやりと考えさせてくれたのはclaudeと共作した朝刊の仕組みのおかげだ。毎朝送ってもらうように設定しており、集めたコンテンツから文章を生成してもらっている。考え事を整理でき、こうして日記を書くインスピレーションを与えてくれたのだから感謝だ。一応転載をしておこうかな。日記の内容と記事の主旨は少しずれてるかもしれない。

 あと余談だけれど、蓮の花の開花が進んでいる。泥の中からさいた花は泥にまみれていない。お釈迦様がそんなことをいっていたらしい。(ん、空海だったか)いいこと言ってるな~。毎日ろくなことを考えていないし、ろくなこともない。ただもがいてばかりの日々だが、汚れのない理想の花を咲かせるよう生きていきたいものです。


●DEAD LOTUS 朝刊 2026年7月20日(月)通巻第7号

今日の問い:発酵の知は「訓練」されるのか、「育てられる」のか

制御する知と応じる知のあいだ

「育てる」という言葉が、二つのまったく異なる場所で使われている。

ひとつは、AIエージェント開発の新しいパラダイムとして提唱された「NFD(Nurture-First Development)」という手法だ。Qiitaに掲載されたこの記事は、プロンプトをあらかじめ書き込む旧来の手法から、「対話を通じて育てる」へのパラダイムシフトを謳う⁽¹⁾。もうひとつは、藍甕の中の微生物だ。オーガニック認定機構の連載コラム「ジャパン・ブルーをたどる」は、天然藍灰汁発酵建ての工程を記述しながら、染師が藍の状態を色・においで読み取り「子どもをあやすように機嫌を取りながら」環境を整える様子を伝える⁽²⁾。

同じ「育てる」という動詞が、これほど非対称な実践を覆っている。

NFDが言う「育てる」は、実のところ「育てる」の衣を纏った精緻な設計論である。日々の対話ログを「経験層」に蓄積し、週に一度の「結晶化セッション」でパターンを抽出し、「スキル層」へと昇華させる。記事はこのサイクルを「KCC(Knowledge Crystallization Cycle)」と名付け、その構造をGitのブランチ管理にたとえる⁽¹⁾。つまり目指しているのは、流動的に見えた暗黙知を、最終的には再現可能な形式に変換することだ。「育てる」と言いながら、その知の行き先は「結晶」であり「脱文脈化」である。育てることの目的が、育てることの終了にある。

藍染の場合は違う。産業技術総合研究所バイオものづくり研究センターの研究によれば、すくも自体が微生物源として機能しており、すくもの生産と染色発酵液という二つの工程の両方に微生物が関与している⁽³⁾。染師はこの微生物の働きを「引き出す」ことはできるが、設計することはできない。藍甕のなかで何が起きているかは、現在も研究の途上にある。染師が持つのは設計図ではなく、状態への感度だ。泡のきめ、色の濃度、においの変化——これらを読む能力は、観察の繰り返しのなかで育つが、マニュアルには落とせない。

ここで「わざ言語」という概念を持ち出したい。名古屋大学の研究者らによる技能習得過程の論考は、ポランニーの暗黙知を参照しながら、技能とは「一定の制約条件をそなえた環境において特定の目的意思をもって遂行される実践的行為」であり、その習得には「行為主体の主体的関与」が不可欠だと論じる⁽⁴⁾。学習知が身体知に転換されるのは、反復練習によってではなく、実践の場に身を置き、環境との相互作用のなかで意味を生成することによってだ。形をなぞることと、場に応じることは、似て非なる過程である。

NFDが乗り越えようとしているのも、まさにこのコンフィギュレーション・ギャップ——事前定義で流動的な知を捉えられない限界——であるはずだった⁽¹⁾。しかし「結晶化」という解決策は、その流動性を一時的に受け入れながら、最終的に固定化へと向かう。場に応じ続けることそのものを目的にはしていない。

対照的に、藍の職人知は固定化を目指さない。「ジャパン・ブルーをたどる」が問うように、科学的原理を知る術もなかった人々が、なぜこれほど複雑な工程を編み出せたのか⁽²⁾。その問いへのひとつの答えは、失敗と応答の蓄積が知として機能したのではなく、失敗と応答そのものが知であった、ということかもしれない。知は結晶化された瞬間に過去のものになる。藍甕は毎日変わる。

実験音楽の文脈にも同型の問いがある。フィルムアート社から刊行された『実験音楽』の刊行記念トークでDOMMUNEが設定したテーマ——「実験とは何を意味してきたのか」——は、まさにこの問いと接続する⁽⁵⁾。ジョン・ケージ以降の実験音楽が問い続けてきたのは、作曲家の意図と音響結果の間にある非決定性をどう引き受けるか、という問題だった。プロンプトを書くことは作曲に近い。だが藍染は演奏にも似ていない。強いて言えば、音を出す前に楽器がすでに生きており、演奏者は楽器の状態に応じながら音を引き出す、という関係に近い。

「制御する知」と「応じる知」という対比は、単純な優劣ではない。農業においてもそうだ。蓮根を育てる土は毎年違う顔を持つ。水管理、土の締まり、気温の変化——どれも事前に設計しきれない変数だ。農家の知はNFDよりも藍染に近い。設計図を持たないまま、状態を読み、応じ続けることで成立する。

問われているのは、「育てる」という言葉が何を隠蔽しているか、だ。NFDの「育てる」は、最終的に人間がバリデーションを行う構造を維持することで、制御の主体性を手放さない⁽¹⁾。藍染の「育てる」は、制御の主体性をそもそも主張しない。前者は育てることで知を所有しようとし、後者は育てることのなかに知を手放している。

この非対称は、メディアの問題でもある。NFDのアーキテクチャはテキストとして書き記せる。スキルファイルはファイルシステムに保存できる。だが、藍甕の状態を読む感度は、テキストには落ちない。それは声であり、身体であり、関係の場に生きる知だ。九州大学の研究者が論じるアフリカン・アメリカン文学における声と文字の相克——読み書きを禁じられた者たちが声の文化として育てた知が、文字化された瞬間に何かを失う構造——は、この問題の極端な形として響いてくる⁽⁶⁾。

「訓練」は反復によって形式を身体に刻む。「育てる」は関係のなかで応答能力を育む。では、設計図なしに育てること——それは人間にも、AIにも、可能なのか。藍甕の菌はそれをしている。染師はその隣で、それをしようとしている。AIのアーキテクチャは、今のところ、それを目指していると言いながら、結晶化へと引き戻されていく。

問いは閉じない。

雑記 自由と労力


 claudeとの環境を大幅に改善できた。ローカルのpc上で動くclaudeとwindowsのコンソール、そしてサーバーと3か所を横断してやりとりする経路がなく、claudeで何かを作ったり修正してもこの3つを横断するためコピー&ペーストを繰り返しながら作り上げてきた。しかし、あまりにもコピーアンドペーストを繰り返され、嫌になり、結局人間に残るのはくだらない雑務だけかと拗ねていたが、思い立って改善案をgoogleで調べていたらclaude on the webとmcpというサーバーとclaudeをつなぐことができるものがあると発見。自分でつくったソフトでコンテンツを調べていたが、googleに助けられた。結局自分のつくったものはエコーチェンバーがあり、困ったときの改善案は出会いにくい。出会うことができても情報を集める設定から変えないといけない。

 1日かかったが成功でき、少し日記を書くのもupが楽になったので、再び文章を書く気になった。pcでしかできない作業も多かったがスマホで大体全部できるのが理想だ。claudeでいろいろつくりはじめて1カ月くらいたったのかな?デジタルDIYともいえる自炊生活で、便利になったというよりは、自分らしく自由になったなという実感。便利に欲望を満たすことができることが自由なのではなくて、好きなものを選択して行動できるのが自由なんだなとしみじみ思う。

雑記 自然の中の音と倍音


 ここ数日は自分自身を解放するということで、義務感のある作業は休み、ただじっと考えを巡らせることばかりしていた。何をしてもいいという状況をつくったときに、大体なにもせずぼぅっとしているので、やはり自分は何もしないことが好きなんだろう。社会人としてはどうしようもない帰結だけれど、見栄をはって何かに執着するのもみじめだ。何もしないことに罪悪感を感じず、ゆっくりと数日過ごした。何もしないぞと意気込んでみたところ、結局は何かをしてしまう。何もしていないときの膨らんだ妄想を成仏させるため、再び思いついたタスクを実践していきたい。今日はそんな気分だ。

 何もしない間、環境音ばかりをじっと聞いていて、その態度がpauline oliverosのdeep listningの概念そのままだった。また、ジョージアやイタリアのサルディニア島の民族音楽で倍音を駆使した和声音楽が面白く、モンゴルのホーミーと合わせて聞いていたら倍音の魅力に気づいた。自然の虫の音や動物の鳴き声は基本的に倍音で、民族音楽では動物の鳴き声をまねているのだという。ただじっと音だけに反応して恣意的な鑑賞ではなく、音との身体的な調和をめざすdeep listningと、自然の規則をまねる倍音の歌声。どちらも人と自然の中間として音の世界とつながっていく。現時点では抽象的なことしか言えないが、検証を重ねればもっと言語化できるはずだ。

 ということで、フィールドレコーディングの準備も併せて進めている。自然の音を聞きながら、自分自身も音を発して、おぼろげに感じている中間領域をもっと掘り下げたい。モジュラーケースも自作し完成したら、1週間くらいは旅行に行きたい。各地で気ままに自然音とセッションをしようと思う。

雑記 ドッペルゲンガー


 ここ数日はclaudeにはまりっぱなしで、ブログを書くのもおざなりにしてしまった。浮かんだアイデアを実践しなければという焦りも少しあったような気がする。思いついたときに取り組まなければ忘れてしまいそうだし、何より夢中になっていたので、記録を残すことや周知することまで気が回らなかった。

 特に印象的だったのは、音楽制作ソフトのabletonにおけるM4Lというツールで楽器やエフェクトがプロンプトで作れたことだった。過去に学習コストが高すぎて挫折したことがあり、一瞬で悩みが解決したので拍子抜けだった。何度も行き詰まり、苦労をして学んでいたが、いざその悩みが無になってしまうと、苦労していたころが少しだけいとおしい。自分がPCで音楽を作り始めたときは、google翻訳もなく日本語マニュアルもなかったので、英語のマニュアルを辞書で調べながら読んでいた。昔は・・・なんてあまり言いたくないが、抗いがたく思ってしまう。昔の苦労はなんだったんだろうと。

 claudeで集めたコンテンツで記事を書くことも試みた。作っていて肝心だと思ったことは、claudeでのコンテンツ集めは広告をつかった無料モデルではないということ。あくまで自腹でclaudeを動かし情報を集めているので、気前よくなんども更新して流し見しているともったいない。一つ一つのコンテンツを大事にしようと思った結果、プライヴェートな集合知として活用することにした。自分に最適化して集めた情報の編集も自動化できてうれしい。これらの情報を摂取し続けて、自分がどう変わっていくのかが楽しみだ。ただ、どうせまた新しく別なことを思いついて、活用はしないかもしれない。変化が目まぐるしく、自分でもどう変化するのかわからない。何かをつくる衝動に身をまかせている。

 AIを触り始めて変化が著しく、過去にやろうと思っていたこともおざなりにして、新しく面白そうなことにばかり取り組んでいる。常に新しいものに飛びついて、やっていたことを投げたしてしまうのは、自分が併せ持った功罪なのだろうか。仕方ないか。どこか明るい諦念を抱いている。ただ、昨今のAIムーブメントも急に始まったことではなく、これまでインターネットが築いてきた文化と地続きなのだと実感もする。ホールアースカタログのDIYや道具を愛する精神、そしてFABLABなど、自分でなんでもつくるという思想をもったMAKERSムーブメント。その先に、現在のなんでも作れるAIカルチャーというものがある気がする。コーディングや知識というものが特権的なものではなく、完全に開放されてしまった。こんなソフトが無料で使えるのはすごいことではある。ただ、社会変化がどのように起きるかはわからない。心配はあるが、道具というものはそもそも使い方次第だし、良い使い方というのを自分で見出そうとは心がけている。

 AIによってさまざまなものが作れるようになったが、自分が作っているという感覚はどこか薄い。生成主体は私ではなくAIの方に移ってしまっているからだろうか。私は最初のアイデアだしと、最後の完成品のチェックが仕事であり、中途の過程は抜けている。ある意味ものづくりをする人間からしてみれば夢のようなのだろうが、抜け落ちた部分を補いうる感性や技術はどんなものなのだろうか。身体にヒントがあるのではといろいろ調べてはいるが、まだ具体化はできない。ただ、自分自身が2分する感覚は少しある気がする。ドッペルゲンガーの小説を過去に書いたが、自分の中では地続きとなっているのではないかというあいまいな気配を感じる。最適化された自分自身と予測不可能な現実を生きる自分。理想と現実の両者が色濃くなっていく。引きはがされることよりは統合を望んでいる。

HPつくりました。


HPつくりました。インターネット初期のスタイルと同じくHTMLを手打ちでやってます。でもコードは全部claudeにお願いしてますね。最先端のAIでレトロなものつくるのっていいかなと。

インスタが窮屈だったし、思ったこととか好きなことを自由にあげたいなって。インスタとかが普通になっちゃったけど、プラットフォーム内で画一されたデザインの中で自分を表現するのって、実は不自然なことなんじゃないのって気づかされちゃって。

なんか超巨大な建物にみんな押し込まれて監視されて徘徊させられてるみたい。現実の街はいろんな建物があったり公園やお庭があるのに。仮想空間は現実とはかけ離れてる。でも、現実も仮想空間みたいに一緒に窮屈になってるような気がする。散歩とか好きだし、現実はもっと豊かなものだと思う。web上でも、この現実の豊かさをとりもどしたい!!俺がやったところで影響力ないけどさ。とりあえず、やってるんだから、文句ぐらい言っていいでしょ!!

俺は40歳過ぎで、web1.0の時代を肌で知ってるし、昔の自分がしってることをまたやるのって大切なことだなってここ数年思ってて。どんな情報も手に入る時代だけど、俺は2000年代に多感な若いころを過ごしてるし、どれだけネット調べても2000年代の2次情報しかないから。おっさんですが、健全なおっさんになるとはどういうことか。最近よく思います。とりあえず、手始めにブログかなって。

とりあえず、俺に初期tumblerのようなインターネットの喜びを思い出させてくれたare.naのリンク張っときます。
https://www.are.na/

あと、現代のウェブのクソさをしっかりと書いてくれてるHPのリンク。The web is fucked.
https://thewebisfucked.com/

そして、個人を庭のように表現するデジタルガーデニングって考え方もすごくよかったのでリンク張っときます。お庭みたいに、俺の世界が有機的につながって、訪れた人がゆっくりできる場所になればいいんだけど。
https://maggieappleton.com/garden-history

そして、知識がなくてもコードを速攻書いてくれて、更新も別にチャット形式でしてくれるというclaudeありがとう。みんなもHPやらないかなぁ・・・。AIとか使ったらすぐできるよ!一晩で!

micro poetry ルーレットをつくりました。


なんかせっかくwebつくるんなら遊び心をだしたい。昔はgifとか変なバナーとかいっぱいあったしいいなと思って。gifとかはまだつくってないけど、昔twitterとかがgifを禁止して急速に衰退した気がする。大きなプラットフォームには遊び心がなくなっちゃったなと。

んで、いろんなHP徘徊してたらルーレットとかあっていいなと思いclaudeと相談しながらつくりました。

個人的な詩を生成するプロセスだけど、ウィリアム・バロウズの自動筆記とかは昔から好きだし、シンプルに頭に思い浮かんだ不思議な言葉とかを書いてみるっていうのが自分の創作スタイルの一端なので、それを簡易的に再現できればなと思って。

本当はサイト内の言葉だけで575の俳句つくれたらなっておもったのだけど、AIでもなかなか難しかったみたい。撥音とか文字数の認識は得意ではないらしい。結局全部ひらがなにしたけど、それはそれでいいのかなと。昔、芥川賞とってた黒田夏子の"abさんご"とか好きだったし、柔らかい印象になるのもいいかなと。

micro poetryは英語圏でつかわれる短い詩の総称で、昔twitterとかで流行ってたなぁって。やってみてください~。

"白紙"という簡易的なメモWEBアプリをつくりました。


文字を書くなんてスマホでどこにでもかけるんですが、AIとかSNSとかに書くって、なんらかの情報を書くことを要求されてるし、スマホのメモだってなんかタイトル書くとこだけ文字がでかかったり、いろんなツール足されてて、なんでもできるんだろうけど、少し邪魔だなって思う。

自分は日記をつけてるし、白い紙とペンだけあればことたりるし、紙とペンさえあればなんとかなるってよく自分に言い聞かせてる。すべてを排除して自分自身に集中したいときはそれぐらいでいいんだと思う。

"白紙"は残すと見返すのボタンが端っこにちょっとあるだけです。あとは、ほぼバグかなってぐらい画面が真っ白になります。書くことしかできないですが、スマホでも集中できるんじゃないかなって思って。

→ 白紙をひらく
※ 書いたものは同じブラウザでのみ残ります。

蔦屋書店で本のPOPを書かせていただきました。


蔦屋書店の棚に並ぶ本たち

今日は自分の本を置いていただいている蔦屋書店で、簡単なPOPを書かせていただきました。

「即興がつなぐ未来」という本で、ここ数年僕が取り組んでいる即興に関する内容です。実際に読んでみて共感するところも多く、POPを書かせていただけてとてもうれしかったです。

昔から音楽は好きだったけど、ずっと一人でやっていて。モジュラーシンセをいじり始めてから、いろいろな方とセッションする機会が増えました。自分がもともとやっていたクラブミュージックとは違う、バンドの方やクラシックの演奏をされる方など、異なるジャンルの方たちとセッションを重ねるうちに、自分の枠を超えた新しい音楽をその場で生み出せた瞬間があって——それが本当に感動でした。

自分の可能性を狭めていたのは、自分自身だったんだなと気づいた瞬間でもありました。

こうして本屋さんで、ただの一般人の僕が推薦文を書くなんて初めてのことで、なんか普通にうれしいもんですね。それにしても、われながら下手な字だなぁ(笑)

テクノロジーと美意識について喋ってみた。


クロードばっかり触っていたら、できることが爆発的に広がってしまって、なんだか変な高揚感がある。ここで一度、自分の軸であるデジタルとか仮想とかメディアとかが何なのかを整理しておかないと、これから向き合えないなという気分になったので、考えるくらいなら勢いで喋っちゃおうと思って録りました。1時間以上、遠近法から第二次世界大戦後のニューヨークまでひたすら喋っています。だいたい15年くらい前に読んだ本のうろ覚えなので、話半分で聞いてください。あと近所の神社で神楽の練習をしていたので、その音もずっと入っています。

一応、しゃべったことのAIによる要約

結局、最初に整理したかったデジタルの定義みたいなものには全然辿り着いていません。というか産業革命のときに全部起こっちゃってるじゃん、というのが今のところの俺の説です。続きは気が向いたら喋ります。

声を録ってみた。


claudeにはまってしまい、diaryもかかずずっとつくってましたね。HPはつくったんだけど、この度、claudeでwebからコンテンツを探してくるブラウザみたいなのつくったので、見てもらおうかなと。もう、見るコンテンツもグーグルとかyoutubeとかinstaのリコメンドされたものじゃなくて、AIで本当に自分に最適化された情報を摂取したくなって。プラットフォーマーの中から抜け出せた感覚が、サイトをつくったら沸き上がったので、いっそ独り言いって公開しようかなと。とりあえずやってみようかなと。

一応、しゃべったことのAIによる要約

たくさんしゃべったのになんだか個人的には気に入らない要約だったけど、まぁいいか。話の結びは構造から抜け出すってうれしい、なんですが、claudeでつくったHPのことなどいろいろ話しています。

窓が多すぎて部屋がなくなる


さて、Claudeでの情報検索にわくわくとしてつかい、バグ出しとブラッシュアップのためつかってるんだけど、今日はなんだかインスタ回帰してみようと思い、たまにしか触ってなかったインスタを久々に心のブレーキを外してゆっくりさわる。結局だらだらとしてしまう。仕事も最低限のタスクしかしなかった。(まぁいつもそうなんだけど・・・。あ、でも最低限やれる規定値が年々増えているから良しとしてほしい。)ベッドの上で石ころになったようにスマホをスクロールしてたんだけど、最終的には自己喪失感が高まり、自分自身の物語性を取り戻したい!!と思い自分の思想・批評文脈を整理。学生時代から30代くらいまではほとんど家で本ばかり読んでいたんだけど、全然アウトプットして整理していなかったから、AIの力を借りてまとめたくなってきた。

批評や思想史、歴史なんかは好きだからたくさんインプットしてきたけど、好きなものがニッチすぎて商業的には成り立たず、アカデミックな研究領域にもいない在野の読書好きでしかなかったので、現実には居場所なんかないなってずっと思っていたんですが、ここ数年は表に出したい欲求が高まっている。この自己実現の欲求に関してはインスタに感謝かな。自分らしさを出すことの敷居が低くなった。ただし反証なのか、出さないと自己喪失のクライシスも身近だ。SNSは自己という部屋に窓をつくってくれて、世界とつなげてくれているが、あまりにも窓が多すぎて部屋と呼べるものではなくなってしまった。

とりあえず、この辺をしゃべろうかなとおもって作った図の情報量が膨大すぎる。本当にやるんだろうか。

年表1 マラルメからシュルレアリスムまで
写真製版〜シュルレアリスム
(スクロールできます)
年表2 ベンヤミンから現在の生成AIまで
ベンヤミン〜生成AI
(スクロールできます)

雑記 怠惰と自己実現に関する考察


 自己実現というものが怠惰の結果にあるという仮説を検証してみよう。ただし、怠惰というのは広義なので、社会構造の中で求められる活動の放棄という意味で限定しよう。また、あくまで私個人における考察であり、一般的なものではない。

 やるべきこと、生きていくために必要なこと、タスクになったものたち。衝動から輪郭をもって構造化したものから、義務やタスクのように感じ、即自的に衝動を満たしてくれるものに行動が誘われる。相対化されて砂のようにむなしい価値観たちの中で、私を生きることに導くのは言語化できない身体だけになってしまった。情報の摂取も身体感覚を刺激するドーパミンやセロトニンの分泌につながるコンテンツを管理者に回遊させられる。表面的には無料で稼働するプラットフォーマーの広告モデルは身体にしみついて、自分自身も広告になったかのように、注意を惹きつけ金銭を生むことが価値になっている。自分自身を売り渡し勝ち誇る売春婦やレイプされる被害者のくやしさ。この比喩は女性に限った例えではなく、男性も同様である。働くという行為は自身をささげるという点ですべてが売春につながっている。自分自身を卑下するこの状況から逃れるために資本家になりFIREしてエスケープを夢見るが、個人的にはそんなもの蜃気楼のようなもので、資本を持てばその資本を維持するためにさらに行動を即され、自身は構造から逃れられないことを知るのみだ。生きるということからは逃れられず、いっそきれいな夢の絵柄をしたメディアで目隠しをして笑って開き直る。目を覚ますと世界は滅んでいる。

 さて、これらが循環的な怠惰の構造の大約なのかなと思うのだが、ここから抜け出すための個人的な秘儀というか、現実と向き合うためによく自分に言い聞かせる方法がある。ただただ自分を卑下することを受け入れることだ。実際に私は蓮根農家として農奴であり、人には使われていないが自然に支配されなんの人権もない奴隷のように扱われている。社長が太陽になっただけで、実態は至極みじめなものだ。冬でも田んぼにはいって収穫をしている姿など、近所の人に見られまくるが皆よくやってるねと言ってくれが、内心は自分はこんなことやりたくないなって思う人も多いだろう。農家も躊躇する仕事が蓮根農家というものだ。正直、人がうらやんでくれるようなプライドは保てない。全くクソみたいな俺なのだ。徹底した自己卑下の先、無価値で誰からも承認されないこの状況において、何かをさげすんで自己承認を即してくれるものも何もない。自分自身をクソだと思うほどに、自分を承認してくれるのはもはや自分しかいない。ここで、自分から目を背け遺棄してしまえば前述の怠惰なのだが、自分自身を自分が信じればそれは字の如く自信というものになる。価値のない自分というものを信じてみると、行動と可能性を感じるし、何より現在というものが破綻しているのにも関わらず、成り立っていることが不思議でたまらない。現実への好奇心というものが湧いてくる。

 自己実現と怠惔についての考察結果なのだが、自己卑下の先に自分を信じるか放棄するかという分岐がある。、どちらを選ぶかは自明なのだけれど、自己卑下というものができない瞬間がある。プライド。これは厄介なものだ。捨てればいいのにと思うが、これについて語るのは今日はやめよう。

サーバーでclaudeを動かし、情報サイトをつくってみる。


インスタやyoutubeを見るのをやめたいが、これといって何気なく携帯を開いても見たいものがない。はじめはRSSでニュースを集めるサイトを作ろうと思っていたが、claude APIを活用し、サーバーからclaudeにニュースを選んでもらう仕様に作りかえた。検索もclaudeを通して行うdiscoveryの機能もつけた。検索結果はgoogleなどとは違い、SEOがないので意外なニュースや記事を拾ってくれたりと、まずまず楽しめるものになった。農家として大事な天気予報も常に表示するようにして、自分自身もプラットフォームとして活用できるようにしていきたい。

 音楽のプレイリストもyoutubeで自動に作ってくれる仕組みをつくった。現時点で3つの自分が演奏したインプロセッションがあるので、それをAI解析し、自分と似た音楽のアーティストだけでプレイリストを作るように指定した。普通に共通点も多く、楽しめるプレイリストができた。毎日更新してくれる予定だ。

 GoogleやMetaから離れて、またいろいろできるようになった。まだまだclaudeを活用してDIYできる余地はたくさんある気がする。プラットフォームからの脱却が進んでいる。

Websiteを更新しました。


白紙のメモがやっとデバイス間の保存ができるようになり、これで無事に共有できるようになった。せっかく書いたものが手違いで消えてしまった。昨日いい感じに書けた小説の見出しは消えてしまい、幻になってしまった。その時にしか書けないものがある。保存というのは大切なものだ。

 白紙アプリのサーバー活用については、個人利用に留めることにした。第三者の書いた文章がサーバーに保管されるようになると、ログイン認証が必要になる。利便性も損なうし、責任も取れないよなと。プライバシーについて考えました。情報を自分で守るということも大切なのだけれど、他者の情報も持たないというのは、ネット上だけでなく個人としてもどこか学びがある。知ってしまうというのは事故である、流入は流出と等価なのだ。おだやかに過ごしたいものである。知りたくない情報というものがある。

 ブロック崩しなどのゲームも追加した。ブロック崩しはレトロなゲームの中でも印象深く、子供の頃に夢中になったので作ってみたかった。クリアすると秘密のメッセージも表示される。是非体験してほしい。ゲストブックなんかも作ってみた。昔よくあった掲示板的なもの。小説のPDFを上げてみたりと、たくさん作ってClaudeに夢中になってしまった。チャットだけでできるのだから。コーディングに何度も挫折している私としてはうれしい限りだ。

claude便利・・・。


サーバーを契約してから、claudeと共作したことを整理。

・サーバー・インフラ
さくらVPS契約(Ubuntu 24.04)
ドメイン deadlotus.media 取得・DNS設定
Nginx設定
SSH・SCP操作を習得
Neocitiesから自前サーバーへ移行

・サイト(index.html)
レイアウト変更(左メイン・右サイドバー固定)
スマホ対応(menuボタンで開閉)
タグフィルタリング・記事前後ナビ
Dead Lotus Mediaタイトルをホームリンクに
手のひらカーソル

・音楽プレーヤー
停止ボタンなし・一時停止なしのコンセプトプレーヤー制作
AIFをMP3に変換してサーバーにアップ
サイドバーに埋め込み

・micro poetry ルーレット
ホーム画面に移動
言葉のプール80語以上

・白紙アプリ
縦書き版(hakushi.html)
横書き版(hakushi_yoko.html)
書き直す・消す機能を追加

これだけのことを対話型でしてくれるclaude、ありがとう。少しづつ考えながら修正しています。なかでも、音楽プレーヤーは停止ボタンをつくらなかったところはちょっと実験的にやってみたかったです。あまりにも便利になりすぎて、ネット上で音楽を最後まで聞くことが自分自身少なくなってて。もう、停止ボタンをつくらず、きかなきゃいけない設計になってます。早送りとかもありません。さくっとチェックすることはできません。インターフェイスが便利になりすぎてますからね。レコードで音楽聞くときとか、一回針落としたら、なんだかんだでゆっくり最後まで聞きますから。あえて不便な設計にして、自分の音楽をしっかり聴いてもらおうかなと。不愉快な音楽だったらすいません!その際はもう再生ボタンを押さないで・・・。

加えて、白紙のアプリも縦書き版をつくりましたね。あと、書き残したものを修正と削除できるようにしました。小説とか書き始めてさすがに書き直せないのはきついなと。あと、縦書きは読書でなれてるし、なんか書く文章も横書きと変わってくるんですよね。

それにしても、これだけの作業を、AI抜きでやろうと思うと今までは膨大な時間と知識がかかってたけど、そのコストから解放されてますね。すごい・・・。chatgptも面白いけど、claudeは生産的ですね。現段階では両方使い分けてます。話し相手としてはchatgptはいいんですが、サイトつくったりとかコードを書くとかはclaudeなのかなと。対話してても、実践的です。

自分のサーバーを持つぞ!!


とりあえず簡易的なメモアプリつくってたら、いろいろ改善したい点がでてきて。まず、書いたものがlocalstrageというところにしか保存されないから、同じブラウザでしか保存されなかったり、ページ移動したら文章消えちゃったりとか。うーん。とか悩んでたら、全然別の気分になってきて小説とかもこれで書けたらなって思い立ち、とりあえずclaudeに相談。

かねてより、縦書きで書くのはメモアプリではできないし、フリーソフトはいけてないし、書くかわからない小説のためにwordのサブスクを払い続けるのが嫌だった。俺はシンプルなものを求めてる。なんだったら見返すことができればいいし、書いたものを削除すらできなくていい。紙に近い感覚でやれればそれでいい。

そして、相談していたら、サーバーないと無理だよって言われて。サーバー?めちゃめちゃ聞いたことあるし、知ったげにサーバーの問題じゃない?とか言ったことがある。でもわかってない。よし、やろう。ということで、しこしこやっておりました。

とりあえず、ネット上に部屋借りるっていう、超シンプルにいえばそんな感じなんだけど、自分のwebsiteをつくるっていうのは仮想空間にきちんと自分で部屋かりてやっていくということなんだなって。instaとかは超鬼クソでかいサーバーと処理をするデータセンターがあって、俺はその中でごちゃごちゃとやっていたんだなと改めて実感。こうやって一から自分の場所をつくろうとしているのは、結構いい一歩なんじゃないかなっておもったり。

昔、震災後くらいかなぁ、坂口恭平が独立国家の作り方ってタイトルだったかな。独立国家をつくるってことで、河川敷に小屋をつくってたけど、ちょっと似てるかも。支配されているデジタル空間から少しでも抜け出して、自分だけの空間とかを一から作ろうとしてる。ま、AI使ってるから厳密にいえば支配されてるけどさ。でも、少なくともMETA社からは抜け出してるし、管理者はMETAじゃなくて俺。マークザッカーバーグじゃなくて俺。うれしい。これをやったところでなんの実利もないけど、うれしい。うれしいんだったら俺はやる。