About Dead Lotus Media

出版。音楽Label。WebsiteはTakumi OhgaとAIとの対話でつくられています。


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✧ micro poetry ルーレット

なるべくサイト内の言葉を使うようにしています。
かれたはすのなか
どろのそこにねがある
にわになるまで
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どろのそこにねがある
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楽器をつくらないと曲ができない


 表題は音楽のことだが、最近はめっきりclaudeばかり。モジュラーシンセは演奏せずに、持ち出せるようにケースづくりに励んでいる。音はならしていないが、でもこれは新しい演奏のためだ。屋外で気軽にできるようにならなければ、フィールドレコーディングやディープリスニングの実践にたどりつけないからだ。だから、間接的にはケースづくりも曲作りも同じことだ。

 演奏中についても即興演奏に目覚めて以来、周囲の音や楽器のセットという器の中で即時的に反応するため、何かを考える余裕もなく、エイッとかヤーッとかそんな程度のことしか考えておらず無心だ。流れに身をまかせてたどり着く場所がおもしろくもあるのだが、結局はセットリストという器の中でもがいているだけなのだ。なんというか曲を作っているという感じがしない。トラックメイクのように事前に仕込んで曲を作っているときは、制作中にめくるめく思いを省みて、やっぱりタイトルはこれだな!みたいなことを考えていた時がなんだか微笑ましい。最近はめっきりなくなってしまった。結局、機材のセットが大事なので、機材のことばかり考えている。claudeで機材もつくれるようになってきてるし、どんなシンセやシーケンサーつくろうかな!?とか。やっぱ倍音を基軸にするのがプリミティブで自然なんじゃないかな?とか。曲に感情をこめる機会が少なくなっている。むしろ、音を出す前にほぼすべてが決まっている。楽器をつくらないと曲ができない。

 こんなことをぼんやりと考えさせてくれたのはclaudeと共作した朝刊の仕組みのおかげだ。毎朝送ってもらうように設定しており、集めたコンテンツから文章を生成してもらっている。考え事を整理でき、こうして日記を書くインスピレーションを与えてくれたのだから感謝だ。一応転載をしておこうかな。日記の内容と記事の主旨は少しずれてるかもしれない。

 あと余談だけれど、蓮の花の開花が進んでいる。泥の中からさいた花は泥にまみれていない。お釈迦様がそんなことをいっていたらしい。(ん、空海だったか)いいこと言ってるな~。毎日ろくなことを考えていないし、ろくなこともない。ただもがいてばかりの日々だが、汚れのない理想の花を咲かせるよう生きていきたいものです。


●DEAD LOTUS 朝刊 2026年7月20日(月)通巻第7号

今日の問い:発酵の知は「訓練」されるのか、「育てられる」のか

制御する知と応じる知のあいだ

「育てる」という言葉が、二つのまったく異なる場所で使われている。

ひとつは、AIエージェント開発の新しいパラダイムとして提唱された「NFD(Nurture-First Development)」という手法だ。Qiitaに掲載されたこの記事は、プロンプトをあらかじめ書き込む旧来の手法から、「対話を通じて育てる」へのパラダイムシフトを謳う⁽¹⁾。もうひとつは、藍甕の中の微生物だ。オーガニック認定機構の連載コラム「ジャパン・ブルーをたどる」は、天然藍灰汁発酵建ての工程を記述しながら、染師が藍の状態を色・においで読み取り「子どもをあやすように機嫌を取りながら」環境を整える様子を伝える⁽²⁾。

同じ「育てる」という動詞が、これほど非対称な実践を覆っている。

NFDが言う「育てる」は、実のところ「育てる」の衣を纏った精緻な設計論である。日々の対話ログを「経験層」に蓄積し、週に一度の「結晶化セッション」でパターンを抽出し、「スキル層」へと昇華させる。記事はこのサイクルを「KCC(Knowledge Crystallization Cycle)」と名付け、その構造をGitのブランチ管理にたとえる⁽¹⁾。つまり目指しているのは、流動的に見えた暗黙知を、最終的には再現可能な形式に変換することだ。「育てる」と言いながら、その知の行き先は「結晶」であり「脱文脈化」である。育てることの目的が、育てることの終了にある。

藍染の場合は違う。産業技術総合研究所バイオものづくり研究センターの研究によれば、すくも自体が微生物源として機能しており、すくもの生産と染色発酵液という二つの工程の両方に微生物が関与している⁽³⁾。染師はこの微生物の働きを「引き出す」ことはできるが、設計することはできない。藍甕のなかで何が起きているかは、現在も研究の途上にある。染師が持つのは設計図ではなく、状態への感度だ。泡のきめ、色の濃度、においの変化——これらを読む能力は、観察の繰り返しのなかで育つが、マニュアルには落とせない。

ここで「わざ言語」という概念を持ち出したい。名古屋大学の研究者らによる技能習得過程の論考は、ポランニーの暗黙知を参照しながら、技能とは「一定の制約条件をそなえた環境において特定の目的意思をもって遂行される実践的行為」であり、その習得には「行為主体の主体的関与」が不可欠だと論じる⁽⁴⁾。学習知が身体知に転換されるのは、反復練習によってではなく、実践の場に身を置き、環境との相互作用のなかで意味を生成することによってだ。形をなぞることと、場に応じることは、似て非なる過程である。

NFDが乗り越えようとしているのも、まさにこのコンフィギュレーション・ギャップ——事前定義で流動的な知を捉えられない限界——であるはずだった⁽¹⁾。しかし「結晶化」という解決策は、その流動性を一時的に受け入れながら、最終的に固定化へと向かう。場に応じ続けることそのものを目的にはしていない。

対照的に、藍の職人知は固定化を目指さない。「ジャパン・ブルーをたどる」が問うように、科学的原理を知る術もなかった人々が、なぜこれほど複雑な工程を編み出せたのか⁽²⁾。その問いへのひとつの答えは、失敗と応答の蓄積が知として機能したのではなく、失敗と応答そのものが知であった、ということかもしれない。知は結晶化された瞬間に過去のものになる。藍甕は毎日変わる。

実験音楽の文脈にも同型の問いがある。フィルムアート社から刊行された『実験音楽』の刊行記念トークでDOMMUNEが設定したテーマ——「実験とは何を意味してきたのか」——は、まさにこの問いと接続する⁽⁵⁾。ジョン・ケージ以降の実験音楽が問い続けてきたのは、作曲家の意図と音響結果の間にある非決定性をどう引き受けるか、という問題だった。プロンプトを書くことは作曲に近い。だが藍染は演奏にも似ていない。強いて言えば、音を出す前に楽器がすでに生きており、演奏者は楽器の状態に応じながら音を引き出す、という関係に近い。

「制御する知」と「応じる知」という対比は、単純な優劣ではない。農業においてもそうだ。蓮根を育てる土は毎年違う顔を持つ。水管理、土の締まり、気温の変化——どれも事前に設計しきれない変数だ。農家の知はNFDよりも藍染に近い。設計図を持たないまま、状態を読み、応じ続けることで成立する。

問われているのは、「育てる」という言葉が何を隠蔽しているか、だ。NFDの「育てる」は、最終的に人間がバリデーションを行う構造を維持することで、制御の主体性を手放さない⁽¹⁾。藍染の「育てる」は、制御の主体性をそもそも主張しない。前者は育てることで知を所有しようとし、後者は育てることのなかに知を手放している。

この非対称は、メディアの問題でもある。NFDのアーキテクチャはテキストとして書き記せる。スキルファイルはファイルシステムに保存できる。だが、藍甕の状態を読む感度は、テキストには落ちない。それは声であり、身体であり、関係の場に生きる知だ。九州大学の研究者が論じるアフリカン・アメリカン文学における声と文字の相克——読み書きを禁じられた者たちが声の文化として育てた知が、文字化された瞬間に何かを失う構造——は、この問題の極端な形として響いてくる⁽⁶⁾。

「訓練」は反復によって形式を身体に刻む。「育てる」は関係のなかで応答能力を育む。では、設計図なしに育てること——それは人間にも、AIにも、可能なのか。藍甕の菌はそれをしている。染師はその隣で、それをしようとしている。AIのアーキテクチャは、今のところ、それを目指していると言いながら、結晶化へと引き戻されていく。

問いは閉じない。

雑記 自由と労力


 claudeとの環境を大幅に改善できた。ローカルのpc上で動くclaudeとwindowsのコンソール、そしてサーバーと3か所を横断してやりとりする経路がなく、claudeで何かを作ったり修正してもこの3つを横断するためコピー&ペーストを繰り返しながら作り上げてきた。しかし、あまりにもコピーアンドペーストを繰り返され、嫌になり、結局人間に残るのはくだらない雑務だけかと拗ねていたが、思い立って改善案をgoogleで調べていたらclaude on the webとmcpというサーバーとclaudeをつなぐことができるものがあると発見。自分でつくったソフトでコンテンツを調べていたが、googleに助けられた。結局自分のつくったものはエコーチェンバーがあり、困ったときの改善案は出会いにくい。出会うことができても情報を集める設定から変えないといけない。

 1日かかったが成功でき、少し日記を書くのもupが楽になったので、再び文章を書く気になった。pcでしかできない作業も多かったがスマホで大体全部できるのが理想だ。claudeでいろいろつくりはじめて1カ月くらいたったのかな?デジタルDIYともいえる自炊生活で、便利になったというよりは、自分らしく自由になったなという実感。便利に欲望を満たすことができることが自由なのではなくて、好きなものを選択して行動できるのが自由なんだなとしみじみ思う。

雑記 自然の中の音と倍音


 ここ数日は自分自身を解放するということで、義務感のある作業は休み、ただじっと考えを巡らせることばかりしていた。何をしてもいいという状況をつくったときに、大体なにもせずぼぅっとしているので、やはり自分は何もしないことが好きなんだろう。社会人としてはどうしようもない帰結だけれど、見栄をはって何かに執着するのもみじめだ。何もしないことに罪悪感を感じず、ゆっくりと数日過ごした。何もしないぞと意気込んでみたところ、結局は何かをしてしまう。何もしていないときの膨らんだ妄想を成仏させるため、再び思いついたタスクを実践していきたい。今日はそんな気分だ。

 何もしない間、環境音ばかりをじっと聞いていて、その態度がpauline oliverosのdeep listningの概念そのままだった。また、ジョージアやイタリアのサルディニア島の民族音楽で倍音を駆使した和声音楽が面白く、モンゴルのホーミーと合わせて聞いていたら倍音の魅力に気づいた。自然の虫の音や動物の鳴き声は基本的に倍音で、民族音楽では動物の鳴き声をまねているのだという。ただじっと音だけに反応して恣意的な鑑賞ではなく、音との身体的な調和をめざすdeep listningと、自然の規則をまねる倍音の歌声。どちらも人と自然の中間として音の世界とつながっていく。現時点では抽象的なことしか言えないが、検証を重ねればもっと言語化できるはずだ。

 ということで、フィールドレコーディングの準備も併せて進めている。自然の音を聞きながら、自分自身も音を発して、おぼろげに感じている中間領域をもっと掘り下げたい。モジュラーケースも自作し完成したら、1週間くらいは旅行に行きたい。各地で気ままに自然音とセッションをしようと思う。

雑記 ドッペルゲンガー


 ここ数日はclaudeにはまりっぱなしで、ブログを書くのもおざなりにしてしまった。浮かんだアイデアを実践しなければという焦りも少しあったような気がする。思いついたときに取り組まなければ忘れてしまいそうだし、何より夢中になっていたので、記録を残すことや周知することまで気が回らなかった。

 特に印象的だったのは、音楽制作ソフトのabletonにおけるM4Lというツールで楽器やエフェクトがプロンプトで作れたことだった。過去に学習コストが高すぎて挫折したことがあり、一瞬で悩みが解決したので拍子抜けだった。何度も行き詰まり、苦労をして学んでいたが、いざその悩みが無になってしまうと、苦労していたころが少しだけいとおしい。自分がPCで音楽を作り始めたときは、google翻訳もなく日本語マニュアルもなかったので、英語のマニュアルを辞書で調べながら読んでいた。昔は・・・なんてあまり言いたくないが、抗いがたく思ってしまう。昔の苦労はなんだったんだろうと。

 claudeで集めたコンテンツで記事を書くことも試みた。作っていて肝心だと思ったことは、claudeでのコンテンツ集めは広告をつかった無料モデルではないということ。あくまで自腹でclaudeを動かし情報を集めているので、気前よくなんども更新して流し見しているともったいない。一つ一つのコンテンツを大事にしようと思った結果、プライヴェートな集合知として活用することにした。自分に最適化して集めた情報の編集も自動化できてうれしい。これらの情報を摂取し続けて、自分がどう変わっていくのかが楽しみだ。ただ、どうせまた新しく別なことを思いついて、活用はしないかもしれない。変化が目まぐるしく、自分でもどう変化するのかわからない。何かをつくる衝動に身をまかせている。

 AIを触り始めて変化が著しく、過去にやろうと思っていたこともおざなりにして、新しく面白そうなことにばかり取り組んでいる。常に新しいものに飛びついて、やっていたことを投げたしてしまうのは、自分が併せ持った功罪なのだろうか。仕方ないか。どこか明るい諦念を抱いている。ただ、昨今のAIムーブメントも急に始まったことではなく、これまでインターネットが築いてきた文化と地続きなのだと実感もする。ホールアースカタログのDIYや道具を愛する精神、そしてFABLABなど、自分でなんでもつくるという思想をもったMAKERSムーブメント。その先に、現在のなんでも作れるAIカルチャーというものがある気がする。コーディングや知識というものが特権的なものではなく、完全に開放されてしまった。こんなソフトが無料で使えるのはすごいことではある。ただ、社会変化がどのように起きるかはわからない。心配はあるが、道具というものはそもそも使い方次第だし、良い使い方というのを自分で見出そうとは心がけている。

 AIによってさまざまなものが作れるようになったが、自分が作っているという感覚はどこか薄い。生成主体は私ではなくAIの方に移ってしまっているからだろうか。私は最初のアイデアだしと、最後の完成品のチェックが仕事であり、中途の過程は抜けている。ある意味ものづくりをする人間からしてみれば夢のようなのだろうが、抜け落ちた部分を補いうる感性や技術はどんなものなのだろうか。身体にヒントがあるのではといろいろ調べてはいるが、まだ具体化はできない。ただ、自分自身が2分する感覚は少しある気がする。ドッペルゲンガーの小説を過去に書いたが、自分の中では地続きとなっているのではないかというあいまいな気配を感じる。最適化された自分自身と予測不可能な現実を生きる自分。理想と現実の両者が色濃くなっていく。引きはがされることよりは統合を望んでいる。

HPつくりました。


HPつくりました。インターネット初期のスタイルと同じくHTMLを手打ちでやってます。でもコードは全部claudeにお願いしてますね。最先端のAIでレトロなものつくるのっていいかなと。

インスタが窮屈だったし、思ったこととか好きなことを自由にあげたいなって。インスタとかが普通になっちゃったけど、プラットフォーム内で画一されたデザインの中で自分を表現するのって、実は不自然なことなんじゃないのって気づかされちゃって。

なんか超巨大な建物にみんな押し込まれて監視されて徘徊させられてるみたい。現実の街はいろんな建物があったり公園やお庭があるのに。仮想空間は現実とはかけ離れてる。でも、現実も仮想空間みたいに一緒に窮屈になってるような気がする。散歩とか好きだし、現実はもっと豊かなものだと思う。web上でも、この現実の豊かさをとりもどしたい!!俺がやったところで影響力ないけどさ。とりあえず、やってるんだから、文句ぐらい言っていいでしょ!!

俺は40歳過ぎで、web1.0の時代を肌で知ってるし、昔の自分がしってることをまたやるのって大切なことだなってここ数年思ってて。どんな情報も手に入る時代だけど、俺は2000年代に多感な若いころを過ごしてるし、どれだけネット調べても2000年代の2次情報しかないから。おっさんですが、健全なおっさんになるとはどういうことか。最近よく思います。とりあえず、手始めにブログかなって。

とりあえず、俺に初期tumblerのようなインターネットの喜びを思い出させてくれたare.naのリンク張っときます。
https://www.are.na/

あと、現代のウェブのクソさをしっかりと書いてくれてるHPのリンク。The web is fucked.
https://thewebisfucked.com/

そして、個人を庭のように表現するデジタルガーデニングって考え方もすごくよかったのでリンク張っときます。お庭みたいに、俺の世界が有機的につながって、訪れた人がゆっくりできる場所になればいいんだけど。
https://maggieappleton.com/garden-history

そして、知識がなくてもコードを速攻書いてくれて、更新も別にチャット形式でしてくれるというclaudeありがとう。みんなもHPやらないかなぁ・・・。AIとか使ったらすぐできるよ!一晩で!

micro poetry ルーレットをつくりました。


なんかせっかくwebつくるんなら遊び心をだしたい。昔はgifとか変なバナーとかいっぱいあったしいいなと思って。gifとかはまだつくってないけど、昔twitterとかがgifを禁止して急速に衰退した気がする。大きなプラットフォームには遊び心がなくなっちゃったなと。

んで、いろんなHP徘徊してたらルーレットとかあっていいなと思いclaudeと相談しながらつくりました。

個人的な詩を生成するプロセスだけど、ウィリアム・バロウズの自動筆記とかは昔から好きだし、シンプルに頭に思い浮かんだ不思議な言葉とかを書いてみるっていうのが自分の創作スタイルの一端なので、それを簡易的に再現できればなと思って。

本当はサイト内の言葉だけで575の俳句つくれたらなっておもったのだけど、AIでもなかなか難しかったみたい。撥音とか文字数の認識は得意ではないらしい。結局全部ひらがなにしたけど、それはそれでいいのかなと。昔、芥川賞とってた黒田夏子の"abさんご"とか好きだったし、柔らかい印象になるのもいいかなと。

micro poetryは英語圏でつかわれる短い詩の総称で、昔twitterとかで流行ってたなぁって。やってみてください~。

"白紙"という簡易的なメモWEBアプリをつくりました。


文字を書くなんてスマホでどこにでもかけるんですが、AIとかSNSとかに書くって、なんらかの情報を書くことを要求されてるし、スマホのメモだってなんかタイトル書くとこだけ文字がでかかったり、いろんなツール足されてて、なんでもできるんだろうけど、少し邪魔だなって思う。

自分は日記をつけてるし、白い紙とペンだけあればことたりるし、紙とペンさえあればなんとかなるってよく自分に言い聞かせてる。すべてを排除して自分自身に集中したいときはそれぐらいでいいんだと思う。

"白紙"は残すと見返すのボタンが端っこにちょっとあるだけです。あとは、ほぼバグかなってぐらい画面が真っ白になります。書くことしかできないですが、スマホでも集中できるんじゃないかなって思って。

→ 白紙をひらく
※ 書いたものは同じブラウザでのみ残ります。

蔦屋書店で本のPOPを書かせていただきました。


蔦屋書店の棚に並ぶ本たち

今日は自分の本を置いていただいている蔦屋書店で、簡単なPOPを書かせていただきました。

「即興がつなぐ未来」という本で、ここ数年僕が取り組んでいる即興に関する内容です。実際に読んでみて共感するところも多く、POPを書かせていただけてとてもうれしかったです。

昔から音楽は好きだったけど、ずっと一人でやっていて。モジュラーシンセをいじり始めてから、いろいろな方とセッションする機会が増えました。自分がもともとやっていたクラブミュージックとは違う、バンドの方やクラシックの演奏をされる方など、異なるジャンルの方たちとセッションを重ねるうちに、自分の枠を超えた新しい音楽をその場で生み出せた瞬間があって——それが本当に感動でした。

自分の可能性を狭めていたのは、自分自身だったんだなと気づいた瞬間でもありました。

こうして本屋さんで、ただの一般人の僕が推薦文を書くなんて初めてのことで、なんか普通にうれしいもんですね。それにしても、われながら下手な字だなぁ(笑)

声を録ってみた。


claudeにはまってしまい、diaryもかかずずっとつくってましたね。HPはつくったんだけど、この度、claudeでwebからコンテンツを探してくるブラウザみたいなのつくったので、見てもらおうかなと。もう、見るコンテンツもグーグルとかyoutubeとかinstaのリコメンドされたものじゃなくて、AIで本当に自分に最適化された情報を摂取したくなって。プラットフォーマーの中から抜け出せた感覚が、サイトをつくったら沸き上がったので、いっそ独り言いって公開しようかなと。とりあえずやってみようかなと。

一応、しゃべったことのAIによる要約

たくさんしゃべったのになんだか個人的には気に入らない要約だったけど、まぁいいか。話の結びは構造から抜け出すってうれしい、なんですが、claudeでつくったHPのことなどいろいろ話しています。

窓が多すぎて部屋がなくなる


さて、Claudeでの情報検索にわくわくとしてつかい、バグ出しとブラッシュアップのためつかってるんだけど、今日はなんだかインスタ回帰してみようと思い、たまにしか触ってなかったインスタを久々に心のブレーキを外してゆっくりさわる。結局だらだらとしてしまう。仕事も最低限のタスクしかしなかった。(まぁいつもそうなんだけど・・・。あ、でも最低限やれる規定値が年々増えているから良しとしてほしい。)ベッドの上で石ころになったようにスマホをスクロールしてたんだけど、最終的には自己喪失感が高まり、自分自身の物語性を取り戻したい!!と思い自分の思想・批評文脈を整理。学生時代から30代くらいまではほとんど家で本ばかり読んでいたんだけど、全然アウトプットして整理していなかったから、AIの力を借りてまとめたくなってきた。

批評や思想史、歴史なんかは好きだからたくさんインプットしてきたけど、好きなものがニッチすぎて商業的には成り立たず、アカデミックな研究領域にもいない在野の読書好きでしかなかったので、現実には居場所なんかないなってずっと思っていたんですが、ここ数年は表に出したい欲求が高まっている。この自己実現の欲求に関してはインスタに感謝かな。自分らしさを出すことの敷居が低くなった。ただし反証なのか、出さないと自己喪失のクライシスも身近だ。SNSは自己という部屋に窓をつくってくれて、世界とつなげてくれているが、あまりにも窓が多すぎて部屋と呼べるものではなくなってしまった。

とりあえず、この辺をしゃべろうかなとおもって作った図の情報量が膨大すぎる。本当にやるんだろうか。

年表1 マラルメからシュルレアリスムまで
写真製版〜シュルレアリスム
(スクロールできます)
年表2 ベンヤミンから現在の生成AIまで
ベンヤミン〜生成AI
(スクロールできます)

雑記 怠惰と自己実現に関する考察


 自己実現というものが怠惰の結果にあるという仮説を検証してみよう。ただし、怠惰というのは広義なので、社会構造の中で求められる活動の放棄という意味で限定しよう。また、あくまで私個人における考察であり、一般的なものではない。

 やるべきこと、生きていくために必要なこと、タスクになったものたち。衝動から輪郭をもって構造化したものから、義務やタスクのように感じ、即自的に衝動を満たしてくれるものに行動が誘われる。相対化されて砂のようにむなしい価値観たちの中で、私を生きることに導くのは言語化できない身体だけになってしまった。情報の摂取も身体感覚を刺激するドーパミンやセロトニンの分泌につながるコンテンツを管理者に回遊させられる。表面的には無料で稼働するプラットフォーマーの広告モデルは身体にしみついて、自分自身も広告になったかのように、注意を惹きつけ金銭を生むことが価値になっている。自分自身を売り渡し勝ち誇る売春婦やレイプされる被害者のくやしさ。この比喩は女性に限った例えではなく、男性も同様である。働くという行為は自身をささげるという点ですべてが売春につながっている。自分自身を卑下するこの状況から逃れるために資本家になりFIREしてエスケープを夢見るが、個人的にはそんなもの蜃気楼のようなもので、資本を持てばその資本を維持するためにさらに行動を即され、自身は構造から逃れられないことを知るのみだ。生きるということからは逃れられず、いっそきれいな夢の絵柄をしたメディアで目隠しをして笑って開き直る。目を覚ますと世界は滅んでいる。

 さて、これらが循環的な怠惰の構造の大約なのかなと思うのだが、ここから抜け出すための個人的な秘儀というか、現実と向き合うためによく自分に言い聞かせる方法がある。ただただ自分を卑下することを受け入れることだ。実際に私は蓮根農家として農奴であり、人には使われていないが自然に支配されなんの人権もない奴隷のように扱われている。社長が太陽になっただけで、実態は至極みじめなものだ。冬でも田んぼにはいって収穫をしている姿など、近所の人に見られまくるが皆よくやってるねと言ってくれが、内心は自分はこんなことやりたくないなって思う人も多いだろう。農家も躊躇する仕事が蓮根農家というものだ。正直、人がうらやんでくれるようなプライドは保てない。全くクソみたいな俺なのだ。徹底した自己卑下の先、無価値で誰からも承認されないこの状況において、何かをさげすんで自己承認を即してくれるものも何もない。自分自身をクソだと思うほどに、自分を承認してくれるのはもはや自分しかいない。ここで、自分から目を背け遺棄してしまえば前述の怠惰なのだが、自分自身を自分が信じればそれは字の如く自信というものになる。価値のない自分というものを信じてみると、行動と可能性を感じるし、何より現在というものが破綻しているのにも関わらず、成り立っていることが不思議でたまらない。現実への好奇心というものが湧いてくる。

 自己実現と怠惔についての考察結果なのだが、自己卑下の先に自分を信じるか放棄するかという分岐がある。、どちらを選ぶかは自明なのだけれど、自己卑下というものができない瞬間がある。プライド。これは厄介なものだ。捨てればいいのにと思うが、これについて語るのは今日はやめよう。

サーバーでclaudeを動かし、情報サイトをつくってみる。


インスタやyoutubeを見るのをやめたいが、これといって何気なく携帯を開いても見たいものがない。はじめはRSSでニュースを集めるサイトを作ろうと思っていたが、claude APIを活用し、サーバーからclaudeにニュースを選んでもらう仕様に作りかえた。検索もclaudeを通して行うdiscoveryの機能もつけた。検索結果はgoogleなどとは違い、SEOがないので意外なニュースや記事を拾ってくれたりと、まずまず楽しめるものになった。農家として大事な天気予報も常に表示するようにして、自分自身もプラットフォームとして活用できるようにしていきたい。

 音楽のプレイリストもyoutubeで自動に作ってくれる仕組みをつくった。現時点で3つの自分が演奏したインプロセッションがあるので、それをAI解析し、自分と似た音楽のアーティストだけでプレイリストを作るように指定した。普通に共通点も多く、楽しめるプレイリストができた。毎日更新してくれる予定だ。

 GoogleやMetaから離れて、またいろいろできるようになった。まだまだclaudeを活用してDIYできる余地はたくさんある気がする。プラットフォームからの脱却が進んでいる。

Websiteを更新しました。


白紙のメモがやっとデバイス間の保存ができるようになり、これで無事に共有できるようになった。せっかく書いたものが手違いで消えてしまった。昨日いい感じに書けた小説の見出しは消えてしまい、幻になってしまった。その時にしか書けないものがある。保存というのは大切なものだ。

 白紙アプリのサーバー活用については、個人利用に留めることにした。第三者の書いた文章がサーバーに保管されるようになると、ログイン認証が必要になる。利便性も損なうし、責任も取れないよなと。プライバシーについて考えました。情報を自分で守るということも大切なのだけれど、他者の情報も持たないというのは、ネット上だけでなく個人としてもどこか学びがある。知ってしまうというのは事故である、流入は流出と等価なのだ。おだやかに過ごしたいものである。知りたくない情報というものがある。

 ブロック崩しなどのゲームも追加した。ブロック崩しはレトロなゲームの中でも印象深く、子供の頃に夢中になったので作ってみたかった。クリアすると秘密のメッセージも表示される。是非体験してほしい。ゲストブックなんかも作ってみた。昔よくあった掲示板的なもの。小説のPDFを上げてみたりと、たくさん作ってClaudeに夢中になってしまった。チャットだけでできるのだから。コーディングに何度も挫折している私としてはうれしい限りだ。

claude便利・・・。


サーバーを契約してから、claudeと共作したことを整理。

・サーバー・インフラ
さくらVPS契約(Ubuntu 24.04)
ドメイン deadlotus.media 取得・DNS設定
Nginx設定
SSH・SCP操作を習得
Neocitiesから自前サーバーへ移行

・サイト(index.html)
レイアウト変更(左メイン・右サイドバー固定)
スマホ対応(menuボタンで開閉)
タグフィルタリング・記事前後ナビ
Dead Lotus Mediaタイトルをホームリンクに
手のひらカーソル

・音楽プレーヤー
停止ボタンなし・一時停止なしのコンセプトプレーヤー制作
AIFをMP3に変換してサーバーにアップ
サイドバーに埋め込み

・micro poetry ルーレット
ホーム画面に移動
言葉のプール80語以上

・白紙アプリ
縦書き版(hakushi.html)
横書き版(hakushi_yoko.html)
書き直す・消す機能を追加

これだけのことを対話型でしてくれるclaude、ありがとう。少しづつ考えながら修正しています。なかでも、音楽プレーヤーは停止ボタンをつくらなかったところはちょっと実験的にやってみたかったです。あまりにも便利になりすぎて、ネット上で音楽を最後まで聞くことが自分自身少なくなってて。もう、停止ボタンをつくらず、きかなきゃいけない設計になってます。早送りとかもありません。さくっとチェックすることはできません。インターフェイスが便利になりすぎてますからね。レコードで音楽聞くときとか、一回針落としたら、なんだかんだでゆっくり最後まで聞きますから。あえて不便な設計にして、自分の音楽をしっかり聴いてもらおうかなと。不愉快な音楽だったらすいません!その際はもう再生ボタンを押さないで・・・。

加えて、白紙のアプリも縦書き版をつくりましたね。あと、書き残したものを修正と削除できるようにしました。小説とか書き始めてさすがに書き直せないのはきついなと。あと、縦書きは読書でなれてるし、なんか書く文章も横書きと変わってくるんですよね。

それにしても、これだけの作業を、AI抜きでやろうと思うと今までは膨大な時間と知識がかかってたけど、そのコストから解放されてますね。すごい・・・。chatgptも面白いけど、claudeは生産的ですね。現段階では両方使い分けてます。話し相手としてはchatgptはいいんですが、サイトつくったりとかコードを書くとかはclaudeなのかなと。対話してても、実践的です。

自分のサーバーを持つぞ!!


とりあえず簡易的なメモアプリつくってたら、いろいろ改善したい点がでてきて。まず、書いたものがlocalstrageというところにしか保存されないから、同じブラウザでしか保存されなかったり、ページ移動したら文章消えちゃったりとか。うーん。とか悩んでたら、全然別の気分になってきて小説とかもこれで書けたらなって思い立ち、とりあえずclaudeに相談。

かねてより、縦書きで書くのはメモアプリではできないし、フリーソフトはいけてないし、書くかわからない小説のためにwordのサブスクを払い続けるのが嫌だった。俺はシンプルなものを求めてる。なんだったら見返すことができればいいし、書いたものを削除すらできなくていい。紙に近い感覚でやれればそれでいい。

そして、相談していたら、サーバーないと無理だよって言われて。サーバー?めちゃめちゃ聞いたことあるし、知ったげにサーバーの問題じゃない?とか言ったことがある。でもわかってない。よし、やろう。ということで、しこしこやっておりました。

とりあえず、ネット上に部屋借りるっていう、超シンプルにいえばそんな感じなんだけど、自分のwebsiteをつくるっていうのは仮想空間にきちんと自分で部屋かりてやっていくということなんだなって。instaとかは超鬼クソでかいサーバーと処理をするデータセンターがあって、俺はその中でごちゃごちゃとやっていたんだなと改めて実感。こうやって一から自分の場所をつくろうとしているのは、結構いい一歩なんじゃないかなっておもったり。

昔、震災後くらいかなぁ、坂口恭平が独立国家の作り方ってタイトルだったかな。独立国家をつくるってことで、河川敷に小屋をつくってたけど、ちょっと似てるかも。支配されているデジタル空間から少しでも抜け出して、自分だけの空間とかを一から作ろうとしてる。ま、AI使ってるから厳密にいえば支配されてるけどさ。でも、少なくともMETA社からは抜け出してるし、管理者はMETAじゃなくて俺。マークザッカーバーグじゃなくて俺。うれしい。これをやったところでなんの実利もないけど、うれしい。うれしいんだったら俺はやる。